メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

韓国人の親戚

昨日、「少なくとも明治以降、親族に韓国人がいたという話は聞いていません」と記しましたが、親族に韓国人の女性と結婚した男性はいます。父の叔母の次男で、まあ“親戚のおじさん”です。

父の家は戦前、浅草で料理屋をやっていたそうで、父の叔母はそこの板前さんと一緒になって新たに店を出し、その店は長男の方が継いで今も健在です。

次男のおじさんは、もう40年ぐらい前、ニューヨークに開店した日本料理屋で板前として働くことになり、当時の羽田国際空港から飛び立って行きました。その時、私も空港へ見送りに行ったことを微かに覚えています。

おじさんは、当初、3年ほど働いたら戻って来るという話になっていたようですが、結局、ニューヨークの店で知り合った韓国人女性と結婚して、そのままニューヨークに居ついてしまいました。

結婚話が持ち上がった時は、親族の男たちが皆猛反対したにも拘わらず、父の叔母は「結婚するのは、お前さんたちじゃなくて、うちの子だよ」と一言で皆を黙らせたそうです。

父は幼い頃に実母をなくし、この叔母さんに育てられたというけれど、この話を私たちに伝えながら、叔母さんの英断を褒め称え、反対した人たちに対して、「どんな大学を出ていようと、朝鮮人と言って人を差別するような奴は大馬鹿者だ」と得意そうに話していました。

父は碁会所に出入りしながら在日の人たちとも手合わせしていたと言い、「だから俺にはそういうつまらない差別感などない」なんて偉そうにしていたものの、なにしろ倅の私と同様、厳しい世間と格闘していなかったから、無責任に何でも言えただろうし、ええ格好しいの進歩派ぶっていただけのことかもしれません。

しかし、あの叔母さんには、本当につまらない差別感など微塵もなかったでしょう。粋な雰囲気のある、偽りなく格好良い叔母さんでした。いつも和服を着こなし、煙草盆を前にしてキセルを燻らせる姿は今でも印象に残っています。

かつて、叔母さんの周囲にも朝鮮の人たちがいたかどうかは良く解りませんが、89年に父の葬儀があった時、父の直ぐ下の妹にあたる叔母さんは私にこう尋ねたものです。

「今でも朝鮮の人たちは相変わらず被害妄想なのかい? いやね、戦前、半島から来た朝鮮の人と浅草を歩いていたら、乞食を見る度に“あれは朝鮮人ですか?”って訊くんだよ」。

この叔母さんが、その朝鮮の人とどういう経緯で知り合って、どのくらいの付き合いだったのか、詳しく訊いて置けば良かったけれど、他の話題に直ぐ移ってしまい、それ以上、聞くことが出来なかったのです。

しかし、ひょっとすると、当時、叔母さんたちの周囲には懇意にしている朝鮮の友人がいたのかもしれません。

さて、ニューヨークで韓国の女性と結婚したおじさんですが、私は40年前に空港で見送って以来顔を合わせる機会のないこのおじさんと、10年ほど前に一度だけ電話で話したことがあります。

その頃、アメリカで中華料理屋を経営していた中国人の友人が、和食の店を出そうと思い立ち、私もこの件について相談された為、おじさんから何かアドバイスを得られないだろうかと考え、母に連絡先を尋ねたところ、わざわざ親戚に問い合わせてニューヨークの電話番号を聞き出した後、次のように説明してくれました。

「彼のところは子供もいなくて奥さんと二人暮らしだというから、男の声が出ればおじさんで、女の声ならば奥さんだろうね」
「二人は普段何語で話しているんですか?」
「さあ、多分、英語が共通語になっているんじゃないのかい?」

おじさんが日本に里帰りした話は何度か聞いたけれど、奥さんを伴って来たことはないようで、母もその女性については何も知らないと話していました。

早速、その番号に電話してみると、女性が綺麗な英語で「ハロー・・・・」と電話口に出たので、「ヨボセヨ」と韓国語で応じ、「Iさんの親戚にあたる者ですが、Iさんいらっしゃいますか?」とそのまま韓国語で続けたところ、

女性は一瞬息を飲んだように黙ってしまい、それからおもむろに私の素性を繰り返し確かめた後、「貴方は日本語を話すことが出来ますか? 主人は日本語しか話せませんが、それでも大丈夫ですか?」と韓国語で訊いたのです。

私が「もちろんです。私は日本人ですから」と答えたら、暫くして「ああ、もしもし・・」とおじさんが電話口に出てきました。

おじさんもかなり驚いたでしょう。「いや、家内が電話に出て、韓国語で話し始めたものだから、私にかかって来たものではないと思っていたら、私に電話だと言い出すから何事かと思ってしまいましたよ」。

奥さんは、おじさんと最初に知り合った頃から流暢に日本語を話していたそうです。

しかし、この方は韓国から日本を経ずにアメリカへ渡ったようであるし、いったいどういう方なのか溢れんばかり興味が湧き、これは近々、この一件の発端となった中国人の友人を訪ねてアメリカへ行き、皆で一緒に会ってみなければならないと思いました。

友人は元々在韓華僑で、韓国語も日本語も流暢に話せるし、「これは凄い出会いになるだろう」と何だかわくわくしたものです。

ところが、再会を果たす前、2002年に中国人の友人はアメリカで亡くなってしまい、その後も私の生活は芳しい展開が見られないまま、経済的な事情でとてもアメリカ行きどころではありません。

トルコの国内移動にさえ、大きな決断を要する有様です。あれから、もう10年が過ぎてしまったとは信じられない気持ちで茫然としています。ニューヨークの御夫婦は今でも御変わりなくいらっしゃるでしょうか。

あんなに驚かせてしまったのだから、なんとか一度お目にかからなければと思いつつ、月日が経つのは早いものだと溜息が出るばかりです。