メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

産廃屋の思い出

この4月から6月にかけて内輪のネット・サークルに、昔、産廃屋でダンプの運転手をやっていた時の思い出話を綴っていたら、結構興味深いものに思われたようなので、少し手直ししたうえ、ここにも掲載することにしました。尚、登場する人たちの名前は私を除いて仮名です。

私はおよそ30年前に高校を出てから、何の夢も希望もないまま、数年の間、今で言うフリーターのような生活をしていました。

 

それから、83年、23歳になって、もう少し収入を増やそうかと思い、スポーツ紙の求人欄に出ていた“35万上確・4tダンプ”の文字に引かれ、川越にある産業廃棄物処理の会社の寮に住み込んでダンプの運転手をやることになり、この寮で生活した2年8ヵ月が、ちょっとした人生の岐路になったかもしれません。

その頃、運送屋などの社長は何処でも“親爺”と呼ばれていて、その会社の社長も運転手たちからそう呼ばれていました。社長は在日朝鮮人2世で、恐いから余り親しく話したことはなかったけれど、私にとっては正しく“親爺”そのものだったように思います。私はここで働いていた時に韓国語を勉強し始めたのです。

 

 

 犬の災難

会社の寮は、廃棄物の保管地に立てられたプレハブで、1階は事務所等になっていて、2階に大部屋が三つあり、それぞれに5人~8人の運転手が住み込んでいました。

 

周囲には林や田園風景が広がっていたけれど、廃棄物は私たちがダンプで運んで来る建設現場のものばかりではなく、外来が持ち込む得体の知れない塵埃等もあったので、プレハブより遥かに高く積み上げられたゴミの山からは絶えず異様な匂いが漂って来るし、日中はブルドーザーがゴミの山を押し上げて、埃を撒き散らし、凄い振動が伝わってくるから、テレビやラジカセのような電機製品もすぐに傷んでしまうほどで、あれは人体にも決して良い影響を与えていなかったと思います。 

寮には、入れ替わり立ち代り色んな人たちが働きに来ては辞めて行き、私が入る前からの住人で、私が辞める時までいたのは、私より4歳ほど年長だった沖縄出身の好漢オオシロさん、岩手県に妻子を残したまま出稼ぎに来ていた重機の達人で憧れの大先輩サトウさん、サトウさんと同年輩で私より15~17歳年長の怪人ナカダさん、通称ナカ爺の3人だけでした。 

ナカダさんが何で怪人なのかと言えば、まずは体格と顔が凄かったです。推薦で某大学のラグビー部に入ったものの途中で辞めたという典型的な体育会系崩れであり、身長180cmほどの筋肉質で横幅のある引き締まった体に、その体と比べても異様にでかくて角張っている日本人離れした顔が乗っかっていました。

 

日本人離れしているのは、張り出した眉骨と立派な鉤鼻で、“花の応援団”の青田赤道を思い出して頂けると良いかもしれません。仕事も生活も全てにおいてチャランポランで、サトウさんのように立派な先輩とは言い難いけれど、なかなか味のある人物じゃなかったかと思います。 

それから、コジマさんという先輩は、転職して寮を出た後、暫くして会社には復帰しましたが、アパートを借りてしまったから、寮には戻って来なかったのです。オオシロさんと同じく、私より4歳ほど年長で、怪力無双の好漢。ナカダさんのように横幅はなかったものの、若い分、力は負けていなかったでしょう。威圧感のある恐い顔に似合わず、優しいところがあって頼りになる先輩でした。 

さて、私がそろそろ仕事に慣れた頃、クニサダと名乗る30歳ぐらいの男が入って来て、この人は呆れ返るほど性質が悪く、不愉快な印象しか残さなかったけれど、“こんな人もいたんだ”ということで、少し思い出す話を書いてみます。 

クニサダさんには、私が3日間ほど助手席に乗せて仕事を教えた為、彼とは否が応でも親しい間柄になってしまいました。

 

初めは、やたらと腰が低く、私を始め他の運転手たちにも、「クニサダと呼んで下さい。宜しくお願いします」と殊勝に挨拶していたのですが、免許証に記載されているのはクニサダではなくて全く異なる氏名であり、しかもこれは普通の日本人名だったから、在日の人たちが使う通名とは訳が違うし、何のことやらさっぱり解らないまま、先輩たちも「なんだあれは? 芸名か?」などと首を捻るばかりでした。 

クニサダさんは、胸の真中に見栄えのしない般若の刺青を入れていて、「これと同じものを入れているのは、日本にあと一人しかいない。そいつは俺の兄弟分なんだ」と話していたけれど、その後、刺青した人を何人も見てきた中で、そうやってわざわざ説明してくれたのは彼以外にいません。 

体力が結構あったから、そこそこに仕事はしていたものの、素行が悪いので皆から嫌がられていました。

 

苛立ったりすると、街中でも手当たり次第、弱そうな人たちに因縁を付けて気勢をあげるので、仕事で一緒になった時に、恥ずかしくて困ったことが何度もあります。

 

信号待ちしているダンプの運転席からいきなり顔を出し、横断歩道を渡っている女性に、「こら! このババア、もたもたしているとひき殺すぞ!」と怒鳴り散らしたりするのです。隣に止まっている私のダンプにも同じ社名が入っているから、当然、お仲間だと思われたに違いありません。 

一時期、寮では、社長が拾ってきた子犬に皆で餌をやって育てたことがあり、私はその犬を助手席に乗せ、予防注射を受けさせに行ったりして、特に可愛がっていたのですが、クニサダさんは「犬が夜吼えるから眠れない。その内に毒饅頭食わして殺したる」と良く騒いでいました。 

そして、ある日、私が現場から帰って来ると、コジマさんを始め何人かの運転手が寄ってきて、「おい、ニイノミ。犬が死んじまったぞ。クニサダの野郎がダンプで追い掛け回してひき殺してしまったんだ」と告げたのです。

 

呆然としている私に、コジマさんは「いいか、ニイノミ。何も言うな。あいつは普通の人間じゃない。お前が騒いだら、何をしでかすか解らないんだ。ここは抑えろ」と厳しい表情で忠告してくれました。

 

 

 扉に穴

産廃屋の思い出は、なにしろ四半世紀前の話だから、一つ一つの出来事は鮮明に覚えているけれど、順序や時間の経過などが殆ど記憶に残っていません。

 

それで、これから紹介するノダさんという人が、いつ頃入って来たのか良く思い出せないのですが、この人も最初はやたらと腰が低く、私より少なくとも15歳ぐらいは年長と思えるのに、相部屋となった私のことを「先輩、先輩」と呼び、「いろいろ教えてください」なんて挨拶していました。 

大きな体をしていたものの、髪の毛をきちんと七三に分け、地味な格好をしていたから、『まあ普通の人だろうな』と思ったものです。

 

一週間ぐらいして、ノダさんが私に、「先輩、寮の風呂場は寒くて堪らんのですが、この辺に銭湯はありませんかね?」と訊いたけれど、これも至極当然な問いだから、「じゃあ、今日現場から早く戻れたら、一緒に行きましょう」と快く答えました。 

寮の風呂場は、プレハブの隣に建てられた掘っ立て小屋で、広さが八畳ほどの土間にバスタブを置き、その前にスノコを敷いただけの簡単なものだから、冬は冷たい隙間風がぴゅーぴゅー入って来ます。

 

風呂場には洗濯機もあって、これを使う為に出入りする人が、扉を開け放ったりすれば、それこそ冷気がどっと入り込み、寒いなんてものではありませんでした。 

私は冬場にこの風呂を使う場合、ブルブル震えながら体を洗い、バスタブに入ると深呼吸してから、頭まで湯に沈めて暫くじっとしていたものです。

 

ある冬の晩、そうやってバスタブの中に潜っていたところ、扉を開けて誰か入って来たようだけれど、千昌男の歌を口ずさんでいるから、それが岩手県出身のサトウさんであることは、顔を出して見なくても解ります。

 

湯の中で、サトウさんが歌を口ずさみながら洗濯機の所へ行った気配を感じていると、突然、歌が止み、スノコを荒々しく踏みつける音がしたかと思ったら、私の頭は鷲づかみにされて湯の中から引きずり出され、目を開けると、頭を鷲づかみにしたままのサトウさんが凄まじい形相で、何事か叫んでいたのです。

 

私が惚けた声で、「すんません。寒いもんで、頭から暖まっていたんですよ」と言ったら、サトウさんは手を離し、「アホ!」と言い残して、プリプリしながら洗濯機の方へ行ってしまいました。 

ノダさんと一緒に銭湯へ行く話でした。銭湯へ行って、服を脱いだら、ノダさんは背中一面に刺青を入れていたのです。

 

その後も何度か同様の場面に出くわしたものの、こういう時に、なんと挨拶して良いものやら、今でも良く解りません。しかし、いずれの場合も、その場で刺青を話題にしたことはなかったと思います。 

暫くすると、ノダさんは頭を坊主刈りにして、なんとなくそれらしく見えてきたけれど、ここへ働きに来る数ヶ月前までは刑務所に入っていて、その前は東北地方でヤクザをやっていたそうです。アワビの売買に絡むシノギで大分稼いだことがあると話していました。 

その怪力は、コジマさんやナカダさん級で、4tダンプのタイヤを座布団でも放るみたいに投げ飛ばしていたから、背丈が私ぐらいしかなかった自称ヤクザのクニサダさんとは、ヤクザらしさが違っていたかもしれません。 

例の“犬殺し事件”から大分たったある晩、私たちの部屋へ来て酒を飲んでいたクニサダさんがノダさんと話し始め、何処そこの組に兄弟分がいるとか、いないとかいう下らない話から言い争いになると、いつの間にか興奮の極に達してしまったノダさんは、突然一升瓶を手に立ち上がり、「勝負しろ!」とか何とか吼えたけれど、クニサダさんの方を見たら、完全に腰を抜かしていて、震えながらノダさんを見上げるだけで、何か言い返すこともできない有様です。

 

私たちが止めに入ると、ノダさんは捨て台詞を残して自分の部屋から出て行き、後に残ったクニサダさんは呆然として口も利けず、「ノダさん戻って来る前に帰った方が良いんじゃないの」と促されて自分の部屋へ戻り、それから幾らも経たない内に会社を辞めて寮を去って行きました。 

日月がどれくらい経過したものか良く覚えていませんが、その後のことです。 

ある晩、疲れていたので、10時ぐらいに早々と床についた私が、ふと目を覚ますと、部屋の明かりは点いたままで、部屋の中ほどにノダさんが仁王立ちし、「アチョー!」といった奇声をあげながら、空手の形みたいなものを披露しているのです。

 

薬が切れたのか、気が変になってしまったのか、とても尋常な様子には思えません。あたりを窺うと、部屋には他に誰もいないようであり、何時なのか良く解らなかったけれど、12時ぐらいだったのではないでしょうか。

 

そっと逃げ出すにしても、ノダさんの前を通らなければ出口の扉まで行き着けないし、何か声を掛けられる状態でもなさそうだし、『これは狸寝入りしかない』と考えていたら、疲れていたから直にまた眠り込んでしまいました。 

翌朝、いつも通り、4時半ぐらいに目を覚まし、作業着を着て薄暗がりの中を出口へ向かい、扉を開けようとしたら、そのベニヤ板を張り合わせた厚さ3~4cmの扉の中ほどに直径30cmぐらいの大きな穴が開いていたのです。

 

『何だこれ!?』と思ってから、やっと昨晩の出来事を思い出し、部屋の中を振り返って見たものの、ノダさんがそこにいたかどうかは確認できませんでした。

 

廊下へ出て良く見ると、廊下も所々が穴だらけになっていて、どうやら昨晩、ノダさんは大分暴れたようです。でも、私はこれについて深く考えることもなく、何事もなかったかのようにそのまま仕事に出掛けました。 まあ、顔面に穴を開けられなくて良かったと思います。 

ノダさんも、その日だったか、その翌日だったか、会社を辞めて寮を出て行きました。 

 

 

土方の親方

今はどうなっているのか解りませんが、私が産廃屋にいた頃は、建設現場への人夫出しは大概ヤクザ会社がやっていました。こういう会社は、現場の土方仕事を請け負っていて、要するに現場の何でも屋さんです。

当時の現場では、工事を受注した総合建設会社が“組”と呼ばれ、この“組”が様々な専門業者に仕事をやらせて工事を進めていたわけだけれど、基礎工事から始まって建ち上がったビルの内装に至るまで、業者が次々と入れ替わって行く中で、この土方会社が現場を離れることはありませんでした。

現場内を片付けたりゴミやガラを出したりするのも土方の仕事だから、私たち産廃屋は現場へ行くと、“組”の監督か土方の親方から指示を受けることになります。

 

特に上得意の“組”だった○○建設の場合、殆どの現場でイセ興業(仮名)という土方会社がガラ出し作業を仕切っていて、私もイセの親方たちには随分世話になりました。

夕方、現場の作業が終る頃、組の監督が親方に翌日の人員について確認しているところへ何度か居合わせたことがあったけれど、「明日は何名ですか?」という監督の問いに、親方が、「何処そこの片付けに6人、何処そこには4人、・・・・・都合20人」といったように答えると、「はい了解」で終ってしまい、「本当にそれだけ必要なの?」なんて野暮なことを訊く監督はいませんでした。

 

しかし、親方が連れて来る20人の内、重機や工具を使いこなせる職人はせいぜい5~6人で、体力的にちゃんと土方仕事の出来るのが7~8人、後は単なる人数合わせとしか思えないようなことも良くあったのです。

聞いたところによると、イセ興業は人夫出しの飯場にこういった要員を住まわせて働かせ、“組”から一人頭いくらという計算で受け取る人夫代をかなりピン撥ねしていたといいます。

そういった人夫さんたちの実態ですが、ある日、都内の~~通り沿いにあった○○建設の現場へ行くと、イセの親方が出て来て、「おう、今日はここに出してあるガラを全部積んで行ってくれよ。手を5人もつけてやるからな」と言い、「さあ、皆、運転手を手伝って、ここにあるヤツをダンプへ積み込んでくれ」と人夫さんたちを呼んだのは良いけれど、「へへーい」とぞろぞろ出て来たのは、『お待ちかね“白浪五人男”の登場』なんてものからはほど遠い、ロートル五人男か、はたまたモーロク五人男か、といった風情の御老人たち。

 

積み込むといっても、ガラ袋をダンプの荷台まで持ち上げることが出来ないような爺様もいるから、そのお二人には荷台へ上がってもらい、ガラ袋を開けるようにお願いしました。

そうやって積み込みを開始したのは良かったものの、直ぐに荷台の袋を開ける作業が追いつかなくなったので、残りのお三方にも荷台へ上がってもらい、私が一人でどんどんガラ袋を放り上げると、それでも追いつかず、袋が溜まると私も荷台に上がって袋を開けながら、結局、山のように積み上げて全部片付いたから、荷台の皆さんに声を掛けたところ、4名はなんとかキャビンの脇についている梯子を伝わって降りて来たけれど、一人の爺様は高い所が苦手なのか、ガラ山の上にへばり付いたままになってしまったのです。

ちょうどそこへ様子を見に来た親方。へばり付いている爺様を発見すると、「なんでお前がそんな所へ上がっているんだ? おい皆、手伝って降ろしてやれ」と呆れたような顔をしたので、「すみません。私が上がるように頼んだんですが・・・」と一応自己申告したら、親方も苦笑いするばかりでした。

まあ、こういう爺様たちは、“組”が支給している人夫代に見合った仕事をしているわけではないから、ピン撥ねされているのを承知で、別に不満も持ってなかったようです。

 

他の現場で、ある老人から、「親方のオオヤマさんね。おっかない顔しているけれど、本当に優しい人なんだ。飯場の食事が不味かったりすると、私らの為にわざわざ何か作ってくれたりするんだよ」というような話を聞いたこともあります。

 

土方の親方には、統率力や調整力が求められるし、現場以外の色々な世界を渡り歩いて来たりして、なかなか魅力的な人物が多かったように思います。

ピン撥ねは、“組”にしてみれば、いい迷惑だろうけれど、土方会社はいざとなれば幾らでも人夫を集めてくれるし、噂によれば、工事に因縁をつけてくる他のヤクザから現場を守る役割も果たしていたそうで、まあ、持ちつ持たれつということだったのかもしれません。

 

 

倒産業者

私たちが住んでいたプレハブの前はダンプの駐車場と産廃の保管地になっていて、対価を払って廃棄物を投棄する外来の業者もいました。 

ある時、そんな業者の一つが定期的に廃棄物を投棄したあげく、支払を滞納したまま倒産してしまい、社長がダンプ2台と私を含む6~7人の従業員を引き連れてその業者の所へ乗り込んだことがあります。 

今考えれば、法的根拠のない犯罪のような行為かもしれないけれど、滞納した分を現物で取り上げてしまおうということだったのです。 

 

社長の右腕を務めていたタカスギさんという番頭格の営業社員が音頭を取って私たち運転手を集め、「おい、お前らは親爺が手を出しそうになったら皆で止めるんだぞ、解ったな」と言い含めてから出発しました。 

その業者は、小さな建築会社で、経営者の自宅の一部を事務所として使っているようであり、玄関のドアを叩いたところ、50歳ぐらいのインテリ風で紳士的な感じのする痩せて小柄な男性が顔を出し、“自分はここに住んでいるだけで事情が良く解らない”と弁明したのですが、一緒に来ていたダンプの配車係のヤノさんが、「社長! こいつが社長です」と声を上げるや、後は皆でその男性を押し込むようにして事務所の中へ入り、瞬く間に男性を取り囲んでしまったのです。 

事務所には、製図用の机がいくつかあり、壁には『今日も明るく頑張りましょう!』みたいな標語が掲げられていたけれど、荒くれ者たちに取り囲まれて脅えている男性と見比べると、妙に白々しく、殺伐とした雰囲気をかもし出す隠し味のように見えました。 

私はどういう訳か、机の前に座らされた男性の真後ろに立たされ、男性の頭越しに怒気を含んで一層鋭くなった社長の顔が間近に迫って来たのを覚えています。 

運転手の中にクニサダさんとノダさんはいなかったけれど、コジマさんや怪人ナカダさんのような強面連中がそろっていたから、その光景はなかなか迫力満点でした。 

手こそ出さなかったものの、社長が机に蹴りを入れたりしながら怒鳴り声を上げる度に、男性は身を強張らせて後ろに反らせるので、真後ろからそれを見ている私は、どうにも変な気がしたものです。 

結局、無理やり誓約書みたいなものを書かして捺印させると、タカスギさんの指示で事務所にあった製図用具やら何やら一切合財をダンプに積んで引き上げ、それを全てプレハブの一階事務所の隣にあった空き室へ収めました。 

この出来事から、どのくらい経った後なのか良く覚えていませんが、ある日の昼頃に現場から戻ってプレハブの前でダンプのシートを外しに掛かったところ、あの男性が軽トラックで乗りつけ、空き室の荷物を運び出しているのが見えます。

 

男性は作業が終った後、事務所の中へ入って挨拶していたようだけれど、直ぐに出て来ると、軽トラックの運転席へ乗り込む前に、四方へ向き直って深々と頭を下げたのです。

 

でも、男性の周りには誰もいなかったし、その行為に気がついていたのは私だけだったかもしれません。私は男性が私の方に向き直って深々と頭を下げた時、何だか決まりが悪いような心持で軽く会釈を返しました。 

 

失踪事件

前回、お世話になった社長の恐ろしげな話を記してしまったけれど、あの社長には厳しいだけじゃなく情の濃い一面もありました。また、朝鮮の人らしく長幼の序を重んじていたのか、自分(45歳ぐらいだったでしょう)より年上であれば、従業員であっても一定の礼儀を弁えて接していたように思います。 

短い期間でしたが、ウエキさんという55~60歳ぐらいのおよそダンプの運転手には見えない温厚な方が働いていた時、社長はこの方を“ウエキ先生”と呼んでいました。まあ、前歴が学校の先生か何かでそう呼んでいただけかもしれませんが、そこに何気ない敬意が表れていたのは確かです。 

社長の経歴について知っているは、在日朝鮮人二世として九州で生まれたこと、お姉さんが北帰していること、十代の頃から現場で働き始めたことぐらいでしょうか。今風に言えば全身からオーラが湧き出ているようであり、もの凄い気迫が感じられたうえ、一席ぶてば弁舌も爽やかでよどみなく、私にはそこいらの政治家よりよっぽど貫禄があるように思えました。 

先日の“取立て事件”も、支払を滞納した方が連絡もせずに逃げてしまったから、ああいった行為に出たのかもしれません。 

今回は、社長の情の濃い一面が表れた話を記すことにします。 

“取立て事件”の際、玄関のドアから顔を出した男性が“社長”であることを知っていた配車係のヤノさん、この人もなかなか特異なキャラクターの持ち主でした。

 

彼のことはやっぱりヤノちゃんと呼ばなければしっくりきません。ヤノちゃんは当時34~5歳といったところじゃなかったでしょうか。背が155cmぐらい、ぽっちゃりとした色白な小太りで顔も丸っこく、前髪のところがいつもおかっぱ頭みたいになっていて子供じみた愛嬌が感じられ、事務所の受付にちょこんと座っていると何だか置物の人形みたいに見えました。 

先輩たちの噂話によれば、身寄りもなく高田馬場で立ちんぼをしているところを社長に拾われて来たのだそうです。産廃屋ではプレハブの一階に個室を与えられ、ダンプの配車と電話受付、外来業者から投棄代を徴収することがヤノちゃんの仕事でした。 

ところが、ある時、外来業者から徴収した代金を少々くすねていたことが発覚して、社長から激しい叱責を受けると、そのままプイと出て行ったきり、何日経っても戻ってきません。

 

ヤノちゃんは、自分の車なんだか会社の車なんだか、ライトバンを一台専用に使っていて、出て行った時もこの車と一緒に姿を消したから、暫くの間は「ヤノちゃんの車を何処そこで見かけた」なんていう目撃情報が寄せられたりしたけれど、そのうちに目撃情報もなくなり、「ヤノの奴、何処へ行っちまったんだろう?」という話もあまり聞かれなくなってしまいました。 

あれは、失踪から3ヶ月ぐらい後だったのか、もっと経っていたのか、台風が接近して風雨が強くなったある日、会社からほど遠くない地域をパトロールしていた警察官が、スーパーの駐車場にポツンと一台だけ停まっているライトバンを発見して中を覗いてみると、そこに干からびて死にそうなヤノちゃんが横たわっていたと言うのです。 

このニュースを聞いて、私は直ぐにヤノちゃんが収容されたという病院に駆けつけました。“餓死寸前の状態”とは聞いていたけれど、医師と看護婦に見守られてベッドに仰向けになっているヤノちゃんの姿を見て、私は思わず息を飲んで立ちすくみ、何と声をかけたら良いのか戸惑うばかりでした。 

ぽっちゃりと太って色白だったヤノちゃんは、ガリガリに痩せこけて真っ黒に日焼けし、髪の毛は伸び放題で髭がボウボウになっており、まるで“マヤ遺跡のミイラ(見たことないけれど・・・)”みたいになっていたのです。

 

付き添っていたタカスギさんが、「おい、ヤノ! ニイノミが来てくれたぞ」と何だか泣きそうな声で呼びかけたら、ヤノちゃんは「おお、ニイノミー」と苦しそうに呻くだけで、直ぐに看護婦さんから遮られてしまいました。 

ヤノちゃんは、ライトバンに乗って失踪後、行くあてもなく暫く放浪してから、車をスーパーの駐車場に停めてそこで寝泊りするようになり、金がある間はスーパーで何か買って食べたりしたものの、金が尽きると空腹を堪え車の中で横たわっていて、その内に意識を失ってしまったそうです。 

タカスギさんの話によれば、警察からの連絡で社長と一緒に病院に駆けつけると、社長は変わり果てたヤノちゃんの姿を見て号泣し、医療費を全て賄うことにしたと言います。 

その後、ヤノちゃんは暫く面会謝絶となっていたけれど、何週間(1ヵ月以上だったかもしれません)か経って、タカスギさんから面会できるようになったという話を聞くと、私は早速、お見舞いに行ってあげました。

 

受付で病室を確認し、病室の入口から恐る恐る中を覗いてみたら、ヤノちゃんはベッドの上に背を向けて座って食事の最中で、それは丸々と太った昔どおりのヤノちゃんでした。

 

おまけに「この飯美味しくないんだよなあ」とか何とか独り言をつぶやくものだから、すっかり拍子抜けした私は『この野郎!』と思い、手にしていたスポーツ紙を丸めながらそーっと近づき、ポコンと頭を引っぱたいてやったら、ヤノちゃんは惚けた顔をこちらへ向けて、「あっ、良く来てくれたなあ」と幸せそうにニコニコしていました。 

 

 

三十六計逃げるに如かず

当時、現場の始業時間は何処でも8時ぐらいだったけれど、都内の現場へその時間に着けようと思えば、早朝、道が混む前に出発しなければなりません。

 

大概、朝5時前に出て、6時半頃には現場に着いていました。しかし、もっと早い時間に着けるよう現場から指示されたこともあります。

いつだったか、この前話題にした“~~通り沿いの現場”から、“4tダンプで残土積み込み、朝6時必着”という指示があり、定刻前にダンプを着けたところ、現場には人っ子一人いなくて、裏手の道路沿いに、ちょうど4tダンプ一台分ぐらいの土が掘り出されたまま山になっていました。

裏手の道路は狭い一方通行で、東の方から来た車が、~~通りを南の方へ出る場合は多少近道になる為、日中は交通量も多く、長い時間ダンプを止めて置くわけには行きません。

 

残土をダンプに積み込もうとすれば、車の余り通らない早朝に片付けてしまわなければならないでしょう。しかし、現場には未だ誰も来ていないから、これは“運転手が勝手に一人で積んでくれ”という“御指示”であると理解できます。

それで、ダンプを残土山の脇に寄せると、現場の中から通行止めの立て看板を持ち出して、100メートルぐらい先の道路の入口に置こうとしたけれど、許可もないのにそれはあんまりだと思い直し、ダンプの30メートルほど後ろに、“只今、作業中ですよ”という意味で置かせてもらい、スコップを手に早速作業を開始しました。

その後、何台かの車がこちらへ曲がって来ようとしたものの、皆、ダンプと立て看板を目にすると、そのまま~~通りの方へ直進して行きます。近道と言っても距離はいくらも変わらないから、大概の場合、向こうで遠慮してくれるのです。

ところが、作業が中盤に差し掛かった頃、乳製品か何かを配達しているらしい2tトラックが躊躇わずに曲がって来て、立て看板のところまで来ると、けたたましくクラクションを鳴らし、30歳ぐらいの運転手が窓から首を出して「勝手にこんなもの置いて良いのかよ! 早くどかせ!」みたいなことを喚きだしました。

 

これは実にもっともなことで、立て看板を許可なく使ったら現場の監督にも咎められるだろうけれど、だからと言って、8時頃に監督が現場へ出てくるまで残土を積み終わっていなければ、これまた文句を言われるでしょう。こちらもそう簡単に引き下がるわけにはまいりません。

スコップを片手に2tトラックへ近づくと、思い切り気合を入れて「うるせえぞ、こらあ! てめえが下がれ!」と一喝してやりました。

 

私がこんな恫喝を試みても様にならないし、褒められたことじゃありませんが、「ああそうですか」とダンプを移動していたら、他の車がどんどん入って来て、いつまで経っても積み終わらないでしょう。ここは“そう簡単に引き下がらないぞ”という決意を見せてやらなければなりません。

 

向こうもトラックを降りて来て、こいつがとても敵いそうもない恐ろしげな奴だったら、その時に、「これは恐れ入りました。ごめんなさい。直ぐに移動します」と言って逃げれば済みます。三十六計逃げるに如かずです。

しかし、この時は、トラックのほうが最初の威勢も何処へやら、ヒューッと逃げて行きました。ざまあみろです。

 

「牛乳屋ごときにチビッて、こんな仕事がやっていられるかい!」と気合を入れなおし、またスコップを振るい続けていると、今度はなんと、ひと目でヤーさんのものと解るごっつい外車が曲がって来ました。

これに私は、さっきまでの威勢も何処へやら、米つきバッタのように畏まりながら、その車が未だ立て看板の遥か手前を近づいて来るうちに看板をどかしてしまおうと走り寄ったところ、外車の運転席には明らかにヤクザと分かる男がハンドルを握っていて、その恐い顔は『このガキ! しばいたるぞ!』と言ってるようでした。

ますます慌てて「すっ、直ぐにどかします」と看板を掴んで、もう一度、外車の様子を窺うと、後ろの席に座っていた年配の紳士が運転席の男に何か命じたようで、男はそのまま後ろを振り向くと、車をバックさせ始めたのです。

 

私が思わず紳士に向かって、「へへーっ」と頭を下げたら、紳士は「まあいいから頑張りなさい」とでも言うように片手を上下に振りました。私がさらに深々と一礼しながら、去り行く外車を見送ったのは言うまでもありません。

しかし、あのヤクザさん、早朝から出勤とも思えないし、あれは朝帰りか何かだったのでしょうか? 

 

 

ふざけるな?

前回お伝えしたスコップを手にしての積み込み作業、あれは結構しんどかったです。コンクリを破砕したガラが多かったものの、残土を積まされることもありました。

大概の場合、荷台の後ろと片側だけに高さ1mぐらいのベニヤ板を立てて積み込み、片側を板の高さまで積み上げれば一車分の伝票を切ってもらえたけれど、時には、「どうしても片付けていってくれ」と頼まれ、二車分もらって両側に板を立てて積むこともあり、この場合、残土やガラをその高さまで跳ね上げるのも大変だったし、両側から山に見えるまで積み込めば、おそらく積載をオーバーしていたんじゃないかと思います。

私は片側だったら一人で一時間半以内、両側でも2時間あれば積み切っていました。

 

夏場には馴れない運転手が卒倒してしまったこともあります。でも、北海道の開拓村出身のヒロシマさんという先輩に言わせれば「こんなの開拓の仕事に比べれば屁でもない」そうです。

 

ヒロシマさんは、私と7~8歳ぐらいしか歳が違わなかったはずなのに、「ラバを使った抜根という作業が大変だった」なんていう話を聞かされると、思わず「いつの時代の話だろう?」と首を傾げたくなったものです。

3年前、イスタンブールの海峡トンネル工事の現場で、ユンボが故障し、スコップで砂を積まなければならなくなった時、私もちょっと手伝ったけれど、ものの5分もしない内に息が切れ、膝頭が震え始めました。今、一車積み込まされたら、間違いなく途中でへたり込んでしまうでしょう。

先輩のコジマさんなどは、恐ろしく積み込むのが早かったです。コジマさんのダンプの荷台を傍から見ていると、早送りの漫画みたいに残土の山が出来上がって行きます。

 

普通、スコップで土を跳ね上げる場合、スコップを差し込んで土を掬ってから、一度スコップを後ろへ引き、反動をつけて「エイヤッ!」とばかり跳ね上げるものなのに、コジマさんは殆どスコップを引くこともなく、そのままスッと持って行ってしまいました。

ある時、コジマさんと一緒に現場へ行ったら、コンクリ・ガラをズタ袋に詰め込んだものが山になっていたんですが、ガラを袋の際まで詰め込んであるものだから、重いのなんのって、私がそれを抱えるように持ち上げてヨタヨタしながら荷台へ積み込んでいたところ、コジマさんは「おい、ニイノミ、無理せんで良い。こんなに詰め込みやがって」と作業を中断させて現場の監督を呼びつけ、「これは重すぎだよ、監督さん。試しに一つ持ってみなよ」。

 

監督が袋を腰の辺りまで持ち上げて、「うわっ、こりゃ重い!」と呻くと、コジマさんは「それじゃあ、土方を出して詰め替えさせて下さい」と言い、監督の手から袋を奪うとそれを肩の上まで差し上げて、「エイッ!」と荷台へ放り投げたのです。監督さんは唖然とした表情で土方衆を呼び集めに戻って行きました。

まあ、コジマさんは当時の私にとってちょっとしたヒーローのようなものでした。面倒見の良い優しい先輩だったけれど、中途半端な仕事は許さず、夜、ダンプのパンクをほったらかしたまま部屋へ上がろうとして、「今日の仕事は今日中に済ませて置け!」と厳しく叱りつけられたこともあります。

もちろん、ダンプの積み込み作業がいつもこんなに大変だったわけではありません。ユンボで積んでくれることもあれば、たくさんの土方衆が手伝ってくれることもあります。コンクリの型枠に使った木片ばかりなら、一人でもあっという間に積み終わってしまうし、今話題のアスベストなど、チクチクと痒くなっても、軽くて直ぐ一杯になるから私は大喜びでした。

しかし、私のような若い運転手は優先的に難易度の高い現場へ送られていたようです。いつだったか2週間ぐらいの間、頻繁に阿佐ヶ谷の化粧品会社改修現場へ配車されたことがあります。

そこへ行けば、いつも一人でコンクリ・ガラをスコップ積み、一日に3回行かされた時はさすがにうんざりして、その頃はコジマさんもいなかったし、『ひょっとして、この現場に来ているのは俺だけじゃないか?』と思い、積み切れずに残ったガラを特徴のある形に並べて置いたところ、2日ぐらいしてまた行ったら、そのままの形が保たれていたので監督さんを問い詰めると、私しか来ていないことを白状したうえ、配車係のヤノちゃんから「来ている運転手にはそれを言わないで下さい」と口封じされていたことまでバラしてくれました。

私は会社へ戻るまで、ハンドルを握りながら、『ヤノの野郎! 許さんぞ!』と怒りを充満させ、暗くなってから会社へ着くと、事務所の受付にぼんやり座っていたヤノちゃんの前でそれをぶちまけたのです。

「ふざけるのも好い加減にしろよ! あの現場には俺しか来てねえって言うじゃねえか?! くだらねえ嘘つくんじゃない!」
「まあ、そう怒りなさんなって。あんな現場に40歳過ぎたロートルを配車するわけにも行かねえだろ?」
「40過ぎたロートル? この会社で20代の運転手は俺だけか、他にはいないのか?!」

こうぶちまけながら、そういえば事務所へ駆け込んだ時に、20代の先輩であるオオシロさんの姿を見ていたから何気なく振り返ってみれば、オオシロさんはそっと事務所から出て行くところでした。

翌日、気分の落ち着いた私を呼び寄せたオオシロさんは、穏やかな口調に厳しさを潜ませながら語り出しました。

「これは生活するための仕事で、学校の部活動じゃないんだ。コジマやヒロシマさんと同じようにやろうとしたら体を壊して働けなくなってしまう。無理なものは無理だとはっきり言わなければならない。お前は運転手って柄でもないから、この仕事を長い間続けようなんて思っちゃいないだろう。しかし、一生これでやって行くつもりなら、そして、これに家族の生活が掛かっていれば、体を壊してしまうわけには行かないんだ」。

私は大人しく頷きながらも、心の中では『オオシロさん、それはあんまりだ。私は別に一時的な気分でこの仕事をしているわけじゃないですよ』と口答えしていました。

 

しかし、そんな口答えが如何に空々しいものであるかは、この馬鹿タレがその後どうやって生きて来たのかを見れば解ります。今でも一向にフリーター気分のまま、こんなところで御託を並べていれば世話はありません。