メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

山を呼び寄せる男

 1ヵ月ほどエーゲ海地方に出かけていて、昨日、イスタンブールへ戻ってきました。

エーゲ海地方はトルコでも宗教色が薄い地域ですが、ここで二人の若いトルコ人エンジニアと思いがけず宗教談義を楽しんできました。

宗教談義と言っても、私の知識では語り合える範囲も自ずと限られてしまうけれど、私自身の信仰や日本の宗教事情について訊かれたので、自分には全く信仰が無いことや多くの日本人がそれほど熱心に宗教を信仰していないことを説明している内、なんだか長い話になってしまったのです。

彼らは教養のある青年だから、安心して「私は無信仰です」なんて答えながら、一応は彼らの宗教傾向について探ってみたところ、二人とも酒は嗜むし礼拝は余りしないと言うものの、ラマダンの断食は実践しているようでした。

日本人が信仰に熱心でないことについては、夏目漱石の「行人」に出て来る“山を呼び寄せるモハメッド”や歎異抄の話を引用して、

「私たちの場合、解らないものは解らないと言えば済んでしまい、それ以上考えることは分限を越えてしまうように感じているんですよ」などと解ったような解らないような説明をしたら、青年の一人は、

「しかし、全てを創造した唯一の神について、解らないと言って考えずに済むものでしょうか? 例えば、生まれつき目が見えない人は、その運命を誰に問い質すのですか? それは神以外に有り得ないでしょう」と切り返してきたけれど、もう一人の青年が笑いながら、

「君はやっぱり“山を呼び寄せる男”だねえ。それは多分、マコトさんの分限を越えたところの話だよ」と茶々を入れたものだから、皆で大笑いしました。

しかし、最初に切り返してきた青年には軽い脳性小児麻痺の影響で少し吃音があり、動作にも多少不自由なところがあったから、『彼はずっとそのことを神に問い質して来たんだろうなあ』と思い、一緒に大笑いしてくれた彼の度量に感服したものです。

また、彼らに「神の存在が科学的に証明できるものでないことは認めますか?」と訊いたところ、「それは認めます。信仰と科学は別けて考えなければなりません」と応じたものの、イスラムでは信仰の根幹に“コーランは神の言葉”と信じることがある為、キリスト教に見られるような聖書批判は認められないと言います。

まあ、この辺が私たちにはどうにも納得の行かないところですが、少なくとも彼らは、「コーランを科学的な研究の対象にすることは出来ませんか?」という私の不遜な問いにも嫌な顔はしませんでした。

-「行人」に出てくる話-

夏目漱石の「行人」に以下のような話が出てきます。我執に苦しむ主人公の一郎(兄さん)に対し、友人のH氏(私)が宗教的な信仰を勧める場面です。 

****************** (以下引用)

私がまだ学校にいた時分、モハメッドについて伝えられた下のような物語を、何かの書物で読んだ事があります。モハメッドは向うに見える大きな山を、自分の足元へ呼び寄せて見せるというのだそうです。それを見たいものは何月何日を期してどこへ集まれというのだそうです。 

期日になって幾多の群衆が彼の周囲を取巻いた時、モハメッドは約束通り大きな声を出して、向うの山にこっちへ来いと命令しました。ところが山は少しも動き出しません。モハメッドは澄ましたもので、また同じ号令をかけました。それでも山は依然としてじっとしていました。モハメッドはとうとう三度号令を繰返さなければならなくなりました。しかし三度云っても、動く気色の見えない山を眺めた時、彼は群衆に向って云いました。――「約束通り自分は山を呼び寄せた。しかし山の方では来たくないようである。山が来てくれない以上は、自分が行くよりほかに仕方があるまい」。彼はそう云って、すたすた山の方へ歩いて行ったそうです。 
  
この話を読んだ当時の私はまだ若うございました。私はいい滑稽の材料を得たつもりで、それを方々へ持って廻りました。するとそのうちに一人の先輩がありました。みんなが笑うのに、その先輩だけは「ああ結構な話だ。宗教の本義はそこにある。それで尽している」と云いました。私は解らぬながらも、その言葉に耳を傾けました。私が小田原で兄さんに同じ話を繰返したのは、それから何年目になりますか、話は同じ話でも、もう滑稽のためではなかったのです。 


「なぜ山の方へ歩いて行かない」 
私が兄さんにこう云っても、兄さんは黙っています。私は兄さんに私の主意が徹しないのを恐れて、つけ足しました。 
「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太を踏んで口惜しがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。なぜ山の方へ歩いて行かない」 

******************* (引用終わり)

私は以上の話を何人もの敬虔なムスリムの友人に話して聞かせたけれど、この話の出典が何であるのか知っている人はいませんでした。「旧約聖書に出てきそうな話だ」と指摘する友人もいました。 

また、これに続くくだりで、H氏は「私がどうかして兄さんを信仰の道に引き入れようと力めているように見えるかも知れませんが、実を云うと、私は耶蘇にもモハメッドにも縁のない、平凡なただの人間に過ぎないのです。宗教というものをそれほど必要とも思わないで、漫然と育った自然の野人なのです」と告白しています。 

日本人の多くが宗教に関心の無いことを不思議がっていたムスリムの友人には、この話も聞かせてから、「そもそも私たちは、“山を呼び寄せよう”なんて大それたことは考えないから、山へ向かって歩いて行く必要もありません」などと言って煙に巻いたりしたものです。 

しかし、宗教を信じていないというトルコ人に、こういう“漫然と育った自然の野人”は余りいないのではないでしょうか。その多くは、何らかのイデオロギーを宗教の代わりにしているか、さもなければ“山を呼び寄せようとするけれど、山へ向かって歩いて行こうとはしない人”であるような気がします。「山を呼び寄せる男、呼び寄せて来ないと怒る男、地団太を踏んで口惜しがる男、そうして山を悪く批判する事だけを考える男」が多いように思えてなりません。