2005年3月28日のラディカル紙よりジェラル・バシュラングチ氏のコラム。バシュラングチ氏は、南東部に非常事態宣言が出されていた90年代初めの頃、イラク国境に近いジズレで起きた事件の思い出から語り始め、クルド問題の民主的な解決を呼びかけています。
****(以下拙訳)
非常事態が宣言されていた時代の中でも最も緊張の続いた日々のことだ。ジズレに「地獄の暑さ」が近づいていた。
襲撃された村で遺体を見たり、拷問された人たちの物語を聞く度にやり切れない思いが募る中、ある夕方、危険を冒して皆でボタン川の辺にピクニックへ行こうと決めた。
オルハン・ドアンが未だ国会議員に当選する前のことで、彼はジズレで弁護士をしていた。私達の中には、他にも弁護士や薬剤師、労働組合のメンバーなどがいた。
私達は、ガバル山とジュディ山に挟まれたカスリック渓谷の川原を目指して出発した。
川原の上手には民兵たちの運営する食堂があり、下手には「文化メフメット」と呼ばれる所があった。
(訳注:民兵は、反政府クルド人武装勢力PKKを掃討するための組織で、地域の政府寄りクルド人によって構成されています。「文化メフメット」がどういう所であるか良く解りませんが、民兵らに比して「文化程度の高い」左系クルド人士が集まる所といった意味であると思われます)
川原にテーブルを置き、家から用意してきたサラダやボレッキ、ドルマなどの料理を並べた。オルハン・ドアンは、まさかに備えて、村の憲兵隊本部への連絡を怠らなかった。
「ジャーナリストや弁護士、薬剤師、組合のメンバーが集まってピクニックを催す」と。
日が落ちて、料理の見分けがつかないくらい暗くなった頃、突然、上から石が降ってきた。
向こうの丘から投石されているようだったが、暗すぎて何者であるか分からない。咄嗟に車のフロントライトを点けて見ると、この地域独特の衣装を纏った10人ほどの女性の姿が浮かび上がる。そこは民兵の村だから、投石していたのも民兵の女房たちであるに違い。
オルハン・ドアンと共に村の憲兵隊本部へ向かうと、途中で民兵たちが陣地に武器を組み立てているのが見えた。気負いこんで憲兵隊本部の門をくぐり、司令官に事情を説明したところ、司令官は静かに私達の話を聞いた後、次のように語ったものだ。
「良くぞ前もって連絡してくれました。少し前、民兵のリーダーがここへ来たんですよ。彼は『PKKの一味が文化メフメットの所に集まって食事をしている』と報告し、『掃討しますか?』と言うんですね。貴方たちが集まっていることを知っていたから、これを防ぐことができました。まあ、掃討できなかったもんだから、女房たちに投石させたってことなんでしょう」。
これは、ネヴルーズの祭典が禁止されていた時代のことである。
その翌日はネヴルーズだった。この地方の全てがそうであったように、ジズレでも銃弾の中でネヴルーズのデモが行なわれ流血の事態となることが予想されていた。潜んでいるホテルの窓や天井は銃弾によって叩き落されるはずだったのだ。
そして今日、20万もの人々が参加したディヤルバクルにおけるネヴルーズの祭典では、イブラヒム・タットゥルセスやジワン・ハジョが舞台に上がっていた。
私もこの祭典に参加して、ホテルに戻って来ると、そこでオルハン・ドアンと10年ぶりに再会を果たすことができた。彼とは、1995年にアンカラのウルジャンラル刑務所で面会したきりだったのである。
「なんと悲しい日々を過ごしたのだろう」とオルハン・ドアンは言う。「あの日々と今日を比べたら、隔世の感があるねえ」。
ホテルを発つ時には、シェイフムシュ・ディケンと会った。彼は最近出版された自著「反乱の流刑」を差し出した。
現在、ディヤルバクル県知事のアドバイザーを務めるシェイフムシュ・ディケンは、長年、ディヤルバクル史の研究に没頭して来たが、この本は口承によって明らかにされた歴史をまとめたものだ。
1925年の「シェイフ・サイドの反乱」以後、ディヤルバクルから他の地方へ強制移住させられた家族たちの物語が記されているのである。
オンギョレン家、アズィズオウル家、ジェミルオウル家、ジズレリオウル家の存命している人々、流刑、望郷、ヨーロッパ・シリア・エジプトで過ごした日々、帰郷後に期待を裏切られた悲しみなどが描かれている。彼らの人生は、かつて如何なる悲劇があったのかを物語るものだ。
例えば、ジェミルオウル家(訳注:流刑以前に撮影されたらしい女性のみの家族写真が掲載されており、それを見る限り、当時としては非常にモダンで裕福な一族だったようです。)のシェルミンさんが味わった悲痛を説明するだけでも充分だろう。
彼女は、父アフメット・ジェミル(訳注:家族写真の所を見ると、撮影場所は「ジェミル将軍邸」となっており、ジェミル氏はオスマン帝国の将軍だったと思われます。)と共に家族がイズミルへ流刑されている時に生まれた。
流刑が終ると家族はディヤルバクルヘ帰り、シェルミンさんもディヤルバクルで小学校へ入学した。
しかし、それから一年も経たない内に、家族は再び強制的にルレブルガス(訳注:ヨーロッパ側)へ移住させられる。何日も掛かった旅路の後に検疫を受け、家族は見知らぬ土地へ荷を解いた。
そして、今度は第二次世界大戦が始まる。シェルミンさんは、特別の許可を取り、黒海地方のオルドゥへ移住させられていた親族の所へ身を寄せた。
高校生になるとデニズリ県へ移ったが、望むところへ行けるチャンスはなく、家族の収入も限られたものだった。その為、強制移住させられた親族が暮らす地方だけに行くことができた。それは流刑親族内の相互依存と言うべきものである。
高校を卒業すると、シェルミンさんは、無料の寄宿舎が付いたアンカラの師範学校で学び、教員となった。そして、ディヤルバクルへ赴任する。
「昔は街の人たちが皆知り合い同士でした。仲の良い、心から打ち解けることのできる友人たちがいたのです。ところが、戻って来た時には、自分をよそ者のように感じてしまいました。公的な地位のある人たちは、私たちの帰郷を認めないかのように振舞い、面と向かって『貴方たちには、絶対、道を与えませんから』と言うのでした」。
6ヶ月後、教員を辞めてシリアの親族のもとへ行き、ここで結婚する。長い間シリアで暮らした後、トルコへ戻り、ディヤルバクルやアンカラで暮らすことになる。
ディケンはシェルミンさんに尋ねる。「流刑という言葉で、先ず何を思い浮かべますか?」。
「全てを失ったのです。何も残りませんでした。住民登録の名前まで消されてしまったんです。家族は散り散りになり、故郷とも切り離されてしまいました。クルド人に嫁いだ人もいれば、チェルケズ人やロードス島に嫁いで、そこの民になってしまった人もいます。ノルマン人や日本人になった人もいたのです」。
シェルミンさんの親族である故フェラット・ジェミルオウルは、流刑の悲しみを散らばった数珠にたとえていた。
「紐の切れた数珠がバラバラになってしまうように、私たちも離散してしまったのです。私たちの家族から嫁を迎えた人たちまで、奉公人たちと共に国内の異なる17ヶ所へ連れて行かれました。それも一晩で。準備をする時間さえ与えてはくれませんでした」。
共和国の成立後、直ぐに始まった苦難の時代には、多くの血が流された。今日も、クルド問題は未解決のまま、私達の前に横たわっている。
しかし、過去を振り返って見るならば、この問題は、流刑や銃弾、暗殺という名の処刑、村の焼却や閉鎖によって解決されることはなかった。
これを他国に干渉されることなく、この大地に暮らす人々が現代に相応しい民主的な方法で解決しなければならない。
多分、この過程で最も必要とされるのは、ディヤルバクルのネヴルーズ祭で舞台に上がった若者チェティン・オラネルの言葉に象徴されるものだろう。
「住んでいるイスタンブールを愛し、全く同じように故郷のアメッドを愛します。メソポタミヤの人間であると同時に、アナトリアの人間でもあります。トルコ人であり、そして同じくらいクルド人でもあるのです」。
もちろん国旗には敬意を示すべきだ。しかし、過去の悪夢を繰り返さない為にも、掲げられた国旗の柄を同胞の頭に打ち下ろしてはならない。
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