メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ化に生涯を捧げたユダヤ人(ミリエト紙)

20051月30日付けのミリエト紙日曜版から。オスマン朝の末期から共和国の初期にかけて、トルコ化に生涯を捧げたユダヤ人モイズ・コーヘンの伝記を著したユダヤ人リズ・ベフモアラス女史(トルコ国民であると思います)にフィリズ・アイギュンドュズ記者がインタビューしています。

 

****(以下拙訳)

モイズ・コーヘンは、1883年にサロニカ(訳注:現在のギリシャテッサロニキ)のセレズで、ユダヤ教導師の子として生まれた。長じて、ジャーナリスト、作家、弁護士、そして事業家となったコーヘンは、その生涯をユダヤ人のトルコ化の為に捧げたと言って良い。

4年前に「マサルオスマン」の伝記を著したリズ・ベフモアラス女史が、今度は1961年にニースで亡くなったこのモイズ・コーヘン(後に改名してムニス・テキナルプとなる)の生涯を説き明かしている。

ベフモアラス女史はモイズ・コーヘンについて、「著作でも明らかにしたように、コーヘンの活動には、私利もあったし、国へ貢献したいという思いや彼なりの信念もあり、それらが全て絡み合っていた」と言う。

 

Q:モイズ・コーヘンの生涯について書こうとしたのは何故でしょうか?

 

A:「マサルオスマン」を書いた後、次の題材について考えていました。伝記的な物語を書こうと思っていたのです。歴史家のザフェル・トプラク氏に、彼の意見を訊いて見たところ、「テキナルプについては良い伝記も書かれているが、貴方ならユダヤ人として彼のことをもっと理解することが出来るのではないか?」とアドバイスしてくれました。

 

Q:ユダヤ人としてコーヘンを書くことは、どういった試みとなりますか?

 

A:称賛や不愉快な批判をもっと強く感じることになるでしょう。私も書きながら、ある時はコーヘンの態度にへつらいを感じ、同じく小さなユダヤ人社会に身を置く者として不愉快になりました。しかし一方で、彼の誇らしい行いを見た時は、幸せな気分でした。内部から書くことは、特別な感情をもたらします。

 

Q:客観的になることは困難でしたか?

 

A:他人について書くわけですから、やはり一定の距離を置いて見る必要がありました。

 

Q:クルド人でありながら「トルコ民族主義の原点」を著したズィヤ・ギョカルプと、「トルコ民族主義」や「トルコ人の魂」を書いたモイズ・コーヘンの会見についてはどう考えていますか?

 

A:モイズ・コーヘンは、ズィヤ・ギョカルプのことを新しいカバリスト(訳注:神秘主義者?)として見ていました。ギョカルプがクルド人であることをコーヘンは知らなかったのではないかと私は思います。ギョカルプのイデオロギーは、自分のアイデンティティーを捜し求めている者にとって非常に魅力的です。

 

Q:モイズ・コーヘンは、20代の頃から「トルコ語を話そう。トルコ人になろう」と言い始め、これを生涯にわたって続けたわけですが、これはどのくらいが、彼が住んでいた国への忠誠であり、どのくらいが自分やその同胞に対する善意だったのでしょう?

 

A:全てが含まれています。当時、オスマン朝ユダヤ人にはトルコ化の流れがあり、モイズ・コーヘンはその最前線に立つ一人でした。その頃のユダヤ人にとってトルコ化はトレンディーなことだったのです。

 

Q:コーヘンは「統一と進歩委員会」(訳注:オスマン朝末期の改革派)の活動にも参加していますが、この組織の中にはシャブタイ派(訳注:オスマン帝国で17世紀にイスラム教へ改宗したユダヤ人の一派)もいました。そもそもサロニカはシャブタイ派の中心地でした。しかし、この本では彼らについて全く触れていませんが・・・。

 

A:シャブタイ派については既に至るところで言及されていますからね。私の本では欠けていても良いと思いました。もちろん、コーヘンのムスリムの友人の中にはシャブタイ派がいたけれど、これはコーヘンの伝記において、特に不可欠な要素というわけでもないので関心を持ちませんでした。

 

Q:「自分にとって良くないことは、他人にとっても良くない」と言いますが、コーヘンの活動は誰のためになったのでしょう?

 

A:自分のためになったとは言い難いですね。長いスパンで見れば、ユダヤ人社会に対して、住んでいる国に合わせて生きる道を示した人々の中の一人と言えます。「嫌ならこの国を去りなさい。さもなければ、自分をこの国の一員と思いなさい」と言った人々の中の・・・。

 

Q:コーヘンは恋人のナディアから「貴方はいつも皆に詫びているような感じだ」と言われていますね。実際、その生涯は詫びるための長い期間だったようにも見えます。まるでユダヤ人であったが為に・・・。

 

A:詫びるというより、「私も皆のようになろう」という望んでいました。皆が遊んでいるのを脇で見ていた子供が大人になった時のように・・・。名前も皆のようにしよう、皆と同じように話そう、皆から認められ、好かれるようになろう・・・。

 

Q:コーヘンと貴方自身を比べた場合どうでしょう? 御自身のアイデンティティーについて考えて見ましたか?

 

A:時としてそんなこともありましたが、これは別のテーマでしょう。私も子供の頃、コーヘンほどには強く感じなかったものの、時々、認められたい、皆のようになりたいということは感じました。学校へ行っていた頃、あるいはこの歳になっても、ある集まりの中で一員として認められたいという重圧を感じ、自分らしからぬ態度を取ったりしたでしょう。コーヘンの態度の中に、これと似たものを見た時は不愉快に思いましたね。

 

Q:コーヘンの誠実さについては、どうお考えですか?

 

A:全ての行動が誠実なものであったとは言いません。しかし、ある事柄、例えば「ケマリズム」という著作やそのテーマに関する彼の思想は誠実なものだったと思います。

 

Q:歴史家たちがこの本をどのように評価するのか調べて見ましたか?

 

A:ケマリストたちは、モイズ・コーヘンが良いケマリストであったと考えているようです。意見を訊いてみた歴史家の多くは、この本を非常に重要なものであると見てくれています。

 

Q:コーヘンは、国民の経済について書いている最中に、「富裕税」の犠牲者となり、家を売らなければなりませんでした。あれほど貢献していたのに、彼のことを守ろうとした人は何故いなかったのでしょうか?

 

A:彼を守ろうとした人はいたけれど、我々が知らないだけではないでしょうか。「富裕税」は実に好い加減なものでしたから、そうでなければ、財産も無いのにもっと過酷な税が課せられていたかもしれません。60歳を過ぎていたにも関わらずアシュカレ(訳注:東部エルズルム県に位置する)へも送られています。

 

Q:2度も候補になったCHP(共和人民党)のことを、富裕税が出た後、本当に党に対する信念から擁護したのでしょうか?

 

A:本の中でも明らかにしましたが、全てが相互に絡み合っていたのです。私利もあったし、国へ貢献したいという思いや彼なりの信念も・・・。その中のどれであったのか、と問われるならば、私利であったかもしれませんね。何故なら、生涯を通して最も強く望んでいたのは、政治家になることでした。

 

Q:本の末尾に親族から寄せられたメールが紹介されていますね。それによると、コーヘンは晩年、ニースでトルコの名誉総領事になりたかったようです。ところがユダヤ人であるという理由でトルコ政府がこれを認めなかったと記されています。

 

A:これが事実であるかどうかについては確信が持てなかったので、メールをそのまま掲載して判断は読者に委ねました。

 

Q:モイズ・コーヘンの日記によれば、彼が最後に書こうとしていた本の表題は「ユダヤの奇跡」でした。これは何を意味しているのでしょう?

 

A:表題を見れば、ユダヤを前面に押し出した内容の本を書こうとしていたようですね。

 

Q:これを考えると、親族からのメールに記されたことは事実かもしれませんね?

 

A:そうですね。彼は失望した結果、自分のルーツへ戻ろうとしたのかもしれません。しかし、「ユダヤ人は総領事になれない」というのは、そのメール以外には根拠が見つからなかったから、はっきりしたことは言えないのです。

 

Q:ユダヤ人社会から、「内輪のことを外で話すな」というような反応が起こるでしょうか?

 

A:それは分かりません。肯定、否定、双方の反応が出ると思います。

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