メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

フランスにおけるムスリム女性のスカーフ着用問題とトルコ(ラディカル紙/ネシェ・ドゥゼル氏のコラム)

2003年12月29日付けのラディカル紙、ネシェ・ドゥゼル氏が「トゥルバン」の問題についてガラタサライ大学哲学科のトゥリン・ブーミン教授(女性)にインタビューしています。

トゥルバンとはムスリム女性が頭に被るスカーフの一種で、通常のスカーフより政治的な意味合いが強いとされトルコでも問題となってきましたが、最近になって、フランスでも中高等教育の場で、ムスリムの女生徒によるトゥルバン及びスカーフの着用を禁じようとする動きが出てきました。

トルコでは、以前から中高等教育の場はもちろんのこと大学でもトゥルバン及びスカーフの着用は禁止されています。

ブーミン教授はソルボンヌ大学で博士号を取ったフランス通であり、もちろんスカーフやトゥルバンは着用していません。(着用すれば大学に入れません)

 

****(以下拙訳)

Q:私たちがトゥルバン問題を解決する前に、フランスも同様の問題で悩まされるようになってしまいました。トゥルバンは国際的な問題になって来ているのですか?

 

A:そうは思いません。トゥルバンは私たちに続いて、フランスだけで問題となっています。

これを、私たち自身の「政教分離主義に対する理解」を強固にするものだと受け取る向きもありますが、それはどうでしょうか? 

フランスは独立したヨーロッパの国です。私たちも独立した国であり、ただヨーロッパに属するのか中東に属するのか良く解りません。

 

Q:ドイツでも、トゥルバンに対して何らかの決定が取られるのではないでしょうか?

 

A:ドイツがトゥルバンについて規制を設けることは決してないと思います。彼らは政治的に賢明な態度で、一つ一つの問題に関して、解決に結びつく策を講ずるからです。

フランスの場合、ジャコバン派、合理主義、デカルトといった伝統により、規制を設けることで全ての問題を解決しようするような傾向があります。

これは、彼らの共和国的な条件反射なんですね。私たちもフランスのジャコバン派モデルを身につけたのだと皆言ってますが、この類似性に惑わされるべきではないでしょう。

フランスと私たちの間には大きな違いがあります。私たちはこの類似性に自惚れて「フランスが我々に追従して、我々の政教分離主義のモデルを身につけようとしている」というように驚いてはいけません。

 

Q:フランスはトゥルバンを政教分離に対する脅威と見ているんでしょうか?。それとも、これはイスラムが既に西欧でテロと同一視されていることに関わっているのですか?

 

A:アルカイダのテロはグローバリズムに関わっています。もしも、世界的なヘゲモニーのシンボルがアメリカではなくてイスラムであったならば、テロはイスラムに対して行われたでしょう。

トゥルバン騒ぎの根底にあるものは、フランスが多文化の問題に直面したということです。

共和国は自身が多文化社会と向き合っていることに気づいたものの、フランスを統合するシステムはこれを解決することができないんですね。

なぜなら、フランス国家は、社会の中に宗教的、あるいはエスニック的な集団が存在することに違和感を感じています。これは彼らの理想に合うものではありません。

フランスが政治的に仮想する社会は、個人が国民として均質な状態で存在する社会です。

現在、政府は、様々な文化にアイデンティティーを求める個人と向き合っています。

学校に来るトゥルバンの着用者は日を追って増えているのに、学校が彼らを感化して統合できずにいること、フランス化させられないでいることを見たフランスは、トゥルバンを禁止しようとしているのです。

無力さを禁止により補おうとする、トゥルバンの禁止は敗北を認めたことになります。

 

Q:どういう敗北でしょう?

 

A:共和国のシステムが学校に与えた役割、そして力が不充分であったことを白状しているのです。

義務教育により、各々が平等で近似している国民を育成するプロジェクトは破綻してしまいました。

「私は先ずムスリムであり、アルジェリア人のフランス国民です」という国民がいることにフランスは堪えられません。

個人が先ず自分をフランス国民として認識することが望まれていて、そうならない場合、それは自分たちのモデルが抗議にさらされていると受け止めてしまいます。

フランスの政治的伝統は多文化への準備が整っていません。多文化について恐怖を感じているのです。

アメリカのように、閉ざされた集団がそれぞれに関係を持たないまま存在する多様な社会の模様には、ほど遠い状態と言えます。

 

Q:EUは、多様な文化、宗教、エスニックグループによる社会を目指しているのではありませんか?。

ドイツと共にEUの両翼を担うフランスもEUの条件に準備が出来ていないということでしょうか?。

トルコと同様にフランスもEUと噛み合っていないようですね?。

 

A:ものの考え方から見ていくならばEUと噛み合っていないでしょう。フランスには根底でEUとの思考的な食違いがあります。

EUのようなトランスナショナル的な構造は、もちろん自由のもとに築かれなければなりません。

政教分離主義は国民国家に関する事象です。民族を超えて、様々な民族の上に築かれる統合体では、国家の社会に対する態度を示す「政教分離主義」の立脚する余地がないでしょう。

そもそも国際的な法取り決めの何処にも政教分離主義はありません。あるのは、宗教、良心、信仰の自由です。

 

Q:フランスはトゥルバンを政教分離への脅威と考えているのでしょうか?

 

A:そうであれば、トゥルバンを街角でも禁止するはずですから違いますね。フランスはトゥルバンを大学で禁止することは全く考えていません。

ただ中高等教育での禁止を計画しているだけです。しかし、今日まで中高等教育の場にトゥルバンの生徒がいたのに禁止されていませんでした。では何故、今になって態度を変えたのか?

 

Q:何故でしょう?

 

A:民主主義は、既にモダン、ウルトラモダン、ポストモダンという個人への理解に向かって発展しました。

フランスは世界におけるこの変化に歩調を合わせることができません。個人の発展に関して問題があるのです。

今日、先進国で個人は、自らをそのアイデンティティーによって定義します。もしも、宗教に回帰するのであれば、これは個人の選択です。

例えば、スカーフを母親のような形で被ろうとはしません。全く違った被り方をします。

しかし、トルコでは「誠実で敬虔な信者であれば、母親のように普通に被りなさい」と言う。

まるで、母親と同じように被っていれば、大学にも受け入れたし、公的エリアへの立ち入りや裁判官、教員という職業につくことも認めてやったのだと言わんばかりです。

しかし、母親のようには被らなかった。何故なら、母親と同様にその宗教の中で生まれたことを認めていないからで、彼女たちは、宗教を自分たちが選択したと言いたいのでしょう。

これは正に、個人を確立することなんですね。彼女は「私がこの宗教に属しているのではない。この宗教は私のものなのだ」と言うのです。

共和国のモデルにはこれが見えていません。そして、これを昔の宗教の復活だと思ってしまいます。しかし、これは宗教が戻ってきていることとは違うのです。

 

Q:ではなんでしょう?

 

A:これは、個人が選択した一つの身分証明としての宗教が現れたということです。このアイデンティティーは近代的な国家と矛盾しません。

それどころか近代的な国家のもたらした結果と言えます。

宗教が社会の全体像を明らかにするために国家と競い合うことから手を引いてしまいました。

「これは私の宗教、私の信仰」と言う信仰の個人レベル化であり、アイデンティティーによる民主主義への移行を示すものです。

このアイデンティティーは公的な場所において認められることを望みます。認められてこそ身分証明となるからです。

 

Q:宗教は、社会生活の中でもっと明らかにその姿を現しながらも、退いていくということですか?

 

A:姿を現したいと願っていますが、既に「私の信仰が全ての人の信仰とならなければならない」というような普遍性を求める主張はありません。

「各々の持つ信仰が即ち各々のアイデンティティーであり、この全ての信仰、アイデンティティーは共存する。大切なことは、このアイデンティティーを現して、それが認められることだ」と言うのです。

そもそも西欧では宗教が戻ってきて再び政権を取ることはありませんでした。

教会は権力を奪われまいと抵抗しましたが、結局奪われてしまい、宗教の替わりに国家がその位置につきました。

社会の全体像を明らかにするイデオロギーを国家が手にしたのです。

 

Q:しかし、イスラムは、宗教として戻って来て政権を手に入れませんでしたか?

 

A:手に入れました。まるで、かつての西欧のような形で手に入れました。何故なら東では、国家が宗教に相対する形で自治権を築くことはなかったからです。

国家が自治権を築いていれば、宗教は自分の場所に退いたでしょう。

西欧はこういう問題をイスラムに特有のものであるかのように言いますが、これは正しくありません。

キリスト教も含めて、宗教がその国家的な権力を築く様はどれも似たり寄ったりです。

全てミッションの点から、あらゆること、社会や世界を明らかにしようとします。ですから、国家の自治権は宗教のお陰ではなくて、宗教にも拘わらず築かれるのです。

 

Q:フランスは、大学におけるトゥルバンを禁止しませんでしたが、私たちは禁止しています。

この違いは、彼らがキリスト教であり、私たちがイスラム教であることから出たものでしょうか?。

それとも、人権や民主主義に対する考え方によるものでしょうか?

 

A:トルコで国家は、宗教から抜け出ようと努力しましたが、市民社会と切れてしまったわけではありません。国家と社会という区別は決して認めませんでした。

しかし、市民社会は国家から別れることにより、自分たちが多数派であることや、その相違点を明らかにすることができるのです。

西欧では、先ず宗教と国家が、その後に国家と市民社会が別れました。

トルコでは、社会が国家から承認を得ることなしに、自らの選択で存在するという過程を経ていません。

国家が市民社会自治権を認めないということは、人権と民主主義の問題があるということになります。

しかし、私たちの場合、国家はこの民主主義の問題を宗教の問題であるかのように考えて、そのように呈示したのです。

 

Q:今日、宗教が国家的な権力を手に入れようとしていることはありませんか?

 

A:西欧にもトルコにもそういったことはありません。

前世紀の初頭にフランスでは、国家と宗教のどちらが社会の全体像を明らかにできるのか、という争いがありました。

トルコは、今自分たちがこの状態にあると思っています。

1905年以前、フランスでは宗教と国家はライバルでした。トルコは、自分たちが未だにフランスにおける1905年の段階にいると思っているのです。

フランスには、かつて戦闘的な共和制と政教分離主義がありました。国家が自ら教会の影響力から抜け出るために、長い間闘わなければなりませんでした。

しかし、トルコでこういったことは起こらなかったのです。トルコには、フランスのように聖職者階級というものや教会、そしてバチカンのような機構はありませんでした。

しかし、トルコにおける共和国は、フランスのように、聖の部分も支配し、全ての思考を統合する共和国的な文化を創造しようとしました。

私たちの場合、国家が宗教の機構と争ってその位置を手に入れようとしたのではなく、宗教の精神的な部分を手に入れようとしたのです。

 

Q:フランスでトゥルバンを着用している女性たちが社会に与えようとしているメッセージは、トルコにおける同様の女性たちのメッセージと同じものですか?

 

A:フランスの場合、「私たちの伝統はこれですから、私たちをこのように認めて下さい」と言ってるんですね。そして、これが問題となっています。

トルコのトゥルバン女性が発しようとしているメッセージは、次のようなものです。

「私は、伝統であるとか共和国が押し付けようとしていることの中から何を受け入れるかについて自分で決定します。共和国がもたらす可能性も活用し、尚且つ自分が選んだ形で頭を覆いたいのです」。

これは啓蒙思想と矛盾しません。多分、これは今日の民主主義が到達した最も高いレベルのものと言えます。

 

Q:何故、そう言えるのですか?

 

A:公的な場所に、個性を現すものを取り除かれた個人としてではなく、自己として入ることを望んでいます。

これは、国家権力を手に入れようという要求ではありません。アイデンティティー、そして民主主義の要求です。

これを国家権力に対する野心と見てしまうから、敵意を露わにして、「お母さんと同じような形で頭を覆いなさい。さもなければ家に閉じこもっていなさい」と言い、イスラム法による支配を恐れてしまうのです。

しかしながら、トゥルバンは個人の確立という面ではかなり進んでいると言えますよ。

 

Q:しかし、フランスでもフェミニストたちがトゥルバンに反対して、トゥルバンは女性を二級市民のレベルに落とすものであると言ってます。

これはトルコでも同様ですね。トゥルバンは女性を二級市民のレベルに落とすものではありませんか?

 

A:伝統的な社会におけるスカーフについては、そう言うことができるでしょう。しかし、トゥルバンはもう全く別の次元に移っています。

トゥルバンは伝統ではなく、個人的な選択の結果です。そうでなければ、母親と同じように頭を覆い、公的な場所へ出ることも望まなかったに違いありません。

これを望むということは、モダンな個人となり男性の上に立ちたいということではありませんか?。

トルコには、現在、3種類の女性が存在しています。スカーフを被っている女性、何も被っていない女性、そしてトゥルバンを被っている女性。つまり、伝統的な女性、モダンな女性、そしてウルトラモダンな女性です。

トゥルバンの女性は、ウルトラモダン、ポストモダンと言えます。

 

Q:何故ですか?

 

A:なぜなら、より個性的だからです。政教分離主義によりスカーフを外した女性に比して、彼女たちはトゥルバンによってモダンのもっと発展した段階を示しています。

伝統的な階層から来たとしても、トゥルバン女性は、伝統文化にも共和国文化にもないタイプの女性です。

彼女は、伝統的な文化の前に首を垂れているわけではありません。母親と同じように見られたり、生きることを望んでいないのです。

そして、共和国の伝統が押し付けようとする「さあ、スカーフを外しなさい。舞踏会に行きなさい」というようなことも認めていません。

 

Q:しかし、一般的にイスラムを見た場合、イスラムは女性を二級市民として見ていませんか?

 

A:一神教では一般的に全てそうですよ。神と言った時に、女性より男性のような何かが頭に浮かぶでしょう?。

 

Q:トゥルバンは宗教的なシンボルですか?

 

A:もちろんです。しかし、「私は宗教に属しています」といったシンボルではなくて、「宗教が私に属しているのです」というようなシンボルです。

要するに、個人的なシンボルと言えます。

しかし、トゥルバンは政治的なシンボルではありませんよ。一人の若い女性が、頭を覆って国家権力を手に入れるために闘うなんてことが考えられますか?。

しかし、国家が未だに市民社会、つまり自分とは別のエリアを認めずに、宗教と争っているような状態で、自らを1905年以前のフランスと同じであると仮想しているのであれば、もちろんトゥルバンを政治的なシンボルであると理解するでしょうね。

しかしこれは、トルコのことも、トゥルバン女性のことも後れた存在であると見ているからなんです。

 

Q:トルコでも宗教が国家権力を手に入れようとしたことはなかったのですか?

 

A:もちろんありましたよ。全ての宗教が機会を得た時には、そうしようとしたはずです。

恐らく、一部の教団は未だにその活動をしています。政治的イスラムの国家権力に対する野心はあるでしょう。

そもそも、ある国々ではイスラムが国家権力を握っています。しかし、トルコのそれに対する恐怖は現実的ではありません。

トルコが政治的イスラムの脅威にさらされていると考えているようですが、トルコで宗教が国家権力を手に入れるという可能性も危険もありません。

 

Q:イスラムは女性を自由にするものだとお考えですか?。それとも抑圧するものでしょうか?

 

A:全ての宗教は、女性ばかりでなく男性をも自由にはしません。宗教は、封建的、父系制的な時代の産物です。人間を伝統へ引きずり込もうとします。

しかし、宗教を自由にモダンな形で活かすことは可能でしょう。西欧で、宗教がかつての力を取り戻すことは全く不可能であり、トルコも部分的にはそうです。

トルコで伝統的な宗教の名のもとに回帰する動きは当然ありますが、それと同時に、宗教の個人レベル化も起こっていて、トゥルバン女性がこれだと言えます。

但し、黒い頭巾を被ってウスキュダル辺りでウロウロしているのは、もちろん個人レベル化とは関係がありません。これは、近代化、西欧化に対してショックを起こした、教団としてのアイデンティティーによる防衛本能です。

そして、この社会経済的な事象は、都市化と資本主義化によって解決されるでしょう。

****