メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

クルド語作家メフメドゥ・ウズン氏へのインタビュー(ラディカル紙/ネシェ・ドゥゼル氏のコラム)

2003年12月1日付けのラディカル紙。ネシェ・ドゥゼル氏(女性)が、シンポジウムに参加するため、トルコへ一時帰国したスウェーデン在住のクルド人作家メフメドゥ・ウズン氏にインタビューしています。

 

****(以下拙訳)

Q:先だってディアルバクルで開催された文化フェスティバルの「中東文学シンポジウム」に参加されましたね。

このシンポジウムのオープニングでディバクル市長のフェリドゥン・チェリックは、「クルドの文化と言語は、弾圧と否定の政策により、望みもしない政治化を遂げてしまった」と語っていますが、この言語の政治化とは一体何のことでしょう?

 

A:それは、言語が不当な形で日常的に政治の重要な道具にされてしまうことです。

本来、言語、宗教、アイデンティティー、文化は政治から分離されたところに置かれていなければなりません。これは個人、そして社会が持っている神聖な権利です。

ところが、クルド語に関してこの神聖な権利は守られませんでした。クルド語は、学校、公的な場、メディアにおいて禁止されました。

禁止された為、クルド語を話しただけでも、それが政治的な態度であるかのように見られてしまったのです。

 

Q:その結果どうなりましたか?

 

A:言語は、個人の感情、文化、社会、経済の必要に応じて表現されるものです。

クルド語は禁止されてしまったことにより、こういった分野での発展を遂げることができませんでした。

世の中の変化から取り残され、閉ざされた社会の言語に留まってしまいます。

 

Q:クルドの文化、言語を政治化から救うためには何をしなければなりませんか?

 

A:禁止条項を撤廃しなければなりません。法律、条令、地方行政の場に、クルド語の禁止条項が鏤められています。

しかし、クルド語は豊かな言葉であり、メソポタミヤの最も古い言語に属するものです。クルド語を失うことは、我々を貧しくさせるでしょう。

なぜなら、メソポタミヤから今日まで継承された文化的遺産の重要な部分を失ってしまうことになるからです。

 

Q:クルド語はトルコで長い間禁止されました。クルド文化には、この他、どのような弾圧が加えられたのですか?

 

A:言語だけではありません。アイデンティティーも軽んじられました。村や市の名前も変えられてしまったのです。

私の母が生まれた村の名はカティネでした。今でも、この地域の人たちは、ユーフラテス河に近いこの村をカティネと呼んでいます。ここは紀元前200~300年代に築かれたコマゲン文明の中心地の一つだったのです。カティネはクルド語じゃありません。この名は2000年に及ぶ歴史を物語っています。

しかし、30年前、村の名をナッルカヤに変えてしまいました。母や祖母にとってナッルカヤは何も意味していません。

こうやって名前をトルコ語に変えることにより、2~3千年の歴史を失ってしまいます。

名前を残しましょう。人々は、この名前から自分たちの土地や文化について知り、アイデンティティーを確かめることができるのです。

それから、クルド人はその歴史も否定されてしまいました。トルコへ帰って来るたびに、新聞を読んで驚くことがあります。

 

Q:どんなことでしょう?

 

A:公的な発表であるとか、新聞等のコラムでクルドアイデンティティーは絶えず侮辱されています。

「追い剥ぎ」であるとか、キルクークの間抜けなクルド人という意味で「ケルキュッキ」なんて言葉が使われていました。

文明国であれば、こういった戯言は全て裁判沙汰になるでしょう。それが、ここでは当たり前に受け止められているのです。

文明的な態度とは、相手に敬意を表すことであり、「国を愛せ、しかし他者を侮辱してはならない」ということを知らなければなりません。それからクルド人の歴史ですが・・・・

 

Q:歴史に関しては、どんなことがあったんでしょう?

 

A:メソポタミヤ北部には数千年の歴史があります。トルコが知らなくても、世界はこれを史書旅行記から学んでいるのです。私も西欧で暮らしながらこれを学びました。

そして、小説を書く為の資料を古文書館から得たりしています。

しかし、トルコ共和国は1923年の成立以来、自らの現実を否定する政策を続けてきました。意志決定を「トルコ民族主義」のイデオロギーに委ねてしまったのです。

クルド人ばかりでなく、アスーリ人、スリヤーニ人、アルメニア人、イエズディ人、エーゲにおけるヘレン文化、そしてオスマン朝とも歴史的な繋がりを断ち切ってしまいました。

新世代をこのイデオロギーによって教育するため、公式の見解に従った文学を創造したのですが、クルド人はこの中でも見下された存在になっています。

例えば、エサット・マフムート・カラクルトが「アララトの反乱」を描いた小説。国家の公式見解に基づいて書かれたこの小説は、あの地域の人たちを無知無教養な民として、まるで獣であるかのように描写しています。

アララトでの軍事行動は、野蛮なものを文明化させるためのものであったとしているのです。

私は、反乱と軍事行動のどちらに正当性があったのかなんてことを話しているわけではありません。ただ、この作家の視線には、西欧の植民地主義的な作家や知識人がアフリカやインド、極東に向けていた視線と同じものを感じます。

 

Q:ディアルバクル市長チェリックは、シンポジウムのオープニングで「10年前であれば、ディアルバクルでこのような催しが実現できるとは、想像することさえ出来ませんでした」と話していますが、私は5年前でも想像できなかったと思います。

このシンポジウムは、トルコが民主化しノーマルな国になって行く過程を示すものであると言えるでしょうか?

 

A:ええ、そうです。トルコでは多くのことが変わりつつあります。これを認めなければならないでしょう。私がこう言うと、「いや、何にも変わっていない」なんて反論する人たちもいますが、そんなことはありません。

今日、私の小説は、トルコでクルド語とトルコ語により出版されています。

ディアルバクルで「チグリス河の願いと流刑者たち」という新しい作品について、市民と公開討論会を開いたところ、3千人も来てくれたんです。そこで、作品の一節をクルド語とトルコ語により朗読しました。

これは私だけでなく、ディアルバクルにとっても初めてのことだったと思います。

また、クズルテペでは4千人もの人たちと2時間に亘ってクルド語で話しました。小説家としての自分を紹介したんです。

1年前、こんなことは不可能でした。この地域における活性化、正常化を見る必要があります。トルコは一歩踏み出しました。トルコのこの歩みを支援しなければなりません。

 

Q:どのように支援することができますか?

 

A:トルコは、イランやイラク、シリア、アフガニスタンパキスタンのような暗い世界の一部になってはいけません。

トルコを欧州と一体化させるためには、まだやることが沢山あります。

しかし、この過程を忍耐強く暖かく見守りながら励まして行かなければなりません。トルコを批判する時も、友情ある文明的な態度でやってもらいたいと思います。

実現されたことの全てを否定したり、現状で満足してしまうのは間違いです。

 

Q:貴方はお話しの中で、「文学とは、抑圧された者たちの詩であり、痛みへの抵抗だ」と仰っていますが、これでは文学の定義を狭めてしまうことになりませんか?

 

A:逆でしょう。それが文学の最も広い定義なんです。私は、世界文学史の発展について話しました。ギルガメシュからホメロスとそれに続くラテン文学、ビルギリウス、オビディウス、そしてダンテにセルバンテス。私たちの地域には、フェルドゥスィーもいます。

 

Q:こういった文学は、人間を描いていると思いますが、人間は「痛みへの抵抗」や「抑圧」のみによって語られるものでしょうか?

 

A:もちろん違います。ホメロスの物語は、単に抑圧だけを語っていません。侵略者のことも描いています。

私が文学を、痛みと抑圧への抵抗を語るものだと言ったのは、特に、2度の大戦や地域紛争、内戦が繰り返された今世紀についてのことなんです。

ここでは文学が、全体主義に対する抵抗となっていました。ユダヤ文学もフランス文学もそうでした。

これは、現代には余り通用していないかもしれません。しかし、クルド人、アスーリ人、スリヤーニ人は自分たちの言葉、アイデンティティー、そして文化的な遺産を、未だにこういった抵抗の中に見出すよりないのです。

 

Q:今日、クルド語は自由に話されていますが、クルド語アルファベットの問題が出てきましたね。クルド語アルファベットの中のxwqは、トルコ語アルファベットにありません。これはどんな問題を生むでしょうか?

 

A:何の問題も生まれやしませんよ。私はトルコへ来て、この論争に巻き込まれてしまいました。ヒュリエト紙は、私に向かって扇動的な記事を書いています。

まるで、スウェーデンクルド人ロビーが、このアルファベットをトルコ語の中に加えようと一斉にキャンペーンを始めたかのような書き方でした。

関係ないですよ。そんなロビーも、また私がそういう運動をするということも全くお話しになりません。この議論はいったい何処から出てきたんですか?

 

Q:DEHAP(トルコのクルド人政党)で、そういうキャンペーンはありませんか?

 

A:ありますね。私もディアルバクルで見ました。しかし、このために喧嘩して取っ組み合いの状態になるなんてナンセンスです。

このアルファベットを使用するためにトルコ語のアルファベットを変える必要もありません。

そもそもそんなことは無理でしょう。アルファベットはその言語の発音に合わせて構成されているんです。トルコ語のアルファベットもトルコ語の発音に合わせてあります。

確かに、クルド語では、トルコ語と違う符号やxwqのような文字を使っています。けれども、トルコ語のアルファベットに他の言語の発音を加える必要はないはずです。

これを要求することは間違っているし、理に適ってもいません。無知で失礼な要求と言えます。もしも、EUが望んでいるのであれば、彼らも無知で解っていないということになるでしょう。

しかし、これだけは強調しておく必要があります。クルド人が子供たちにクルド語の名前を付ける時には、自分たちのアルファベットに相応しい名前を付けることになりますが、これを禁止するのは文明的な態度と言えません。

 

Q:クルド人が自分たちのアルファベットを使用することは自由にすべきだと仰るんですね?

 

A:そうです。あなた方は、英語やフランス語、ドイツ語を禁止しますか? 違うでしょう。

これらの言語の中にも同様の文字があります。クルド語の時だけ禁止するというのですか? 

それでは、まだ偏見やかつての政治思考から脱け出していないということになってしまいます。

 

Q:すると、別のアルファベットを持って、それを使おうという要求なんですか?

 

A:私はそうなるべきだと思いますね。別のアルファベットは元々あるんです。

クルド人は、自分たちの言語にある発音と合うアルファベットを作りました。このアルファベットが自由に使われるようにならなければなりません。

クルド語のアルファベットはトルコ語に害を与えるものじゃないんですよ。例えば、David Bowieと書くときには、wを使っているじゃありませんか? 

クルド人のウエラトもWelatと書けば良いでしょう。何か問題がありますか?

 

Q:現在、このアルファベットに関する禁止条項は未だ沢山あるんですか?

 

A:そうは思いません。ディアルバクルの文学シンポジウムでは、クルド語とトルコ語のポスターがあって、そのアルファベットも全て使われていました。

トルコの歩みを、こんな意味のない馬鹿げたことで妨げてはいけません。

 

Q:小説をクルド語でお書きになってますね。それがトルコ語に翻訳され、トルコで出版されています。

新作の「チグリス河の流刑者」はクルド語とトルコ語で出版されました。クルド語のものとトルコ語のものでは、どちらが多く売れているのでしょう?

 

A:もちろんトルコ語のものですね。それも凄い差があります。しかし、ここからクルド語は弱いなんていう結果を導き出すのは間違いです。

クルド語が禁止されていたということを忘れてはいけません。人々はクルド語の読み書きができないんです。なぜなら、クルド語の教育を受けていませんから。

私もクルド語の読み書きを、1972年、18歳の時にディアルバクルの刑務所で服役中に学びました。クルド語を読むということは始まったばかりです。そして、クルド語の読書人口は急速に増えています。

 

Q:ヤシャル・ケマル(トルコで最も著名な作家)は、トルコ語で書いてます。貴方はクルド語ですが、なぜクルド語で書くと決めたのでしょうか?

 

A:クルド語は私の母語なんですよ。トルコ語は、7歳になって学校へ行くようになってから学びました。

自分たちの言葉が見下され、失われようとしているのであれば、それを守ろうとするのは当然のことでしょう。

これは徳義上の責任と言えます。政治やイデオロギーとは関係がありません。それに、私は子供の時の言葉を使って作家になりたかったのです。

1980年代にクルド語で書き始めた時、周りで殆どの人たちが「馬鹿なことをやっている」と言ってました。なぜなら、ゼロから新たに出発しようとしている言語でものを書くということは、現代社会で一義的な存在となっている金とか名声、栄誉のようなものを諦めなければならないからです。

 

Q:小説をクルド語で書くことにより、名声や栄誉を諦めたと仰いましたが、ヤシャル・ケマルがクルド語で書いていたならば、今のような名声と栄誉を手に入れることは出来なかったのでしょうか?

 

A:これは単なる仮定ですが、ヤシャル・ケマルがクルド語で同様に重要な小説を書いていれば、もっと大きな栄誉を手にすることが出来たと思いますね。ただ、あれほど重要な作品をクルド語が創造し得たかどうかは疑問です。

彼はトルコ語で書くことにより、言葉の面から言っても、作品を読者に提供することや国際的な関係を築くという面から言っても、新たな可能性を手にしました。

なぜなら、トルコ語には、やはりそういう可能性があるんです。トルコ語は、大学や図書館、近代文学における蓄積、批評家、そして大きな読書人口を有しています。

作品が読者にもたらされる為のチャンネルもあります。クルド語には無いものばかりです。つまり、クルド語で書くということは単なる小説の創造ではありません。

 

Q:なんでしょう? 言語も創造するということですか?

 

A:クルド語による近代文学の言葉も創造しなければなりません。これは、熱狂的な人間でなければ出来ないことです。

そのために、現在、ヤシャル・ケマルに限らず多くのクルド人が、トルコ語ペルシャ語アラビア語で執筆せざるを得ないのです。

彼らはヤシャル・ケマルと同様で、クルド語が解っていません。言語上、同化されてしまったクルド人と言えるでしょう。

もちろん、ヤシャル・ケマルの場合、少しはクルド語を知っています。子供の時にはクルド語で話していたそうです。今でも、私の娘とはいつもクルド語で話していますよ。娘はヤシャル・ケマルにとってクルド語の先生なんです。

 

Q:娘さんはお幾つですか?

 

A:11歳です。ヤシャル・ケマルのことを「お爺さん」なんて呼んでますね。彼のクルド語の間違いを直してやっているんです。

「お爺さん、そういう言い方はしませんよ。こう言います」なんてね。ヤシャル・ケマルのような作家でさえ、言語上同化されてしまいました、クルド人の場合。

彼らには、クルド語で書くチャンスがありませんでした。ヤシャル・ケマルは最良の方法を選択し、トルコ語で書いたのです。

クルド語の文化的遺産、怒り、色彩、味をトルコ語に伝え、トルコ語を豊かにしました。これは必要なことでした。

しかし、一部のクルド人作家は、先程言ったような恐れや困難から、トルコ語ペルシャ語アラビア語で書くことを選んだのです。

 

Q:最近の動きを見て、長年続いたクルド問題が、ようやく平和的に解決されそうだという希望を持てますか?

 

A:ええ、とても希望を持っています。トルコは既に路線を明確にしました。もう後戻りが不可能な地点まで来ています。

これは、文明化、民主化への道であり、新しいトルコを迎える為のプロセスです。このプロセスの中でクルド問題は解決されます。そして、クルド問題が解決されることにより、トルコは一層強くなれるでしょう。

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