メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

イズミル(2)「イズミル在住韓国人家庭を訪問」

ドンギョン氏のところは、亭主が食べ物にうるさいだけあって、奥さんの手料理も美味(勿論全て韓国料理)、泊まり込む度に堪能している。
何度となく食卓に日本の豆腐が出たこともある。韓国の豆腐は木綿漉しどころじゃなくて麻漉しといったような感じでちょっと頂けない。

ところが、チゲ鍋に入っている豆腐は絹漉しのように柔らかい。「あれっ、この豆腐?」と言うと、「あなたが来るんで、わざわざ日本から取り寄せたんですよ。というのは冗談ですけど、NATOの基地があるでしょ、そこで勤務しているトルコ人の知り合いに買って来てもらったんです。あそこには何でもありますから」。別に私のためというわけじゃなくて、彼も日本の豆腐が気に入っているみたいだった。
イズミルで世話になったもう一人の韓国人チェさんは、韓国から家族を呼び寄せる前、イズミル在住の韓国人家庭を順繰りに回っては夕食を御馳走してもらっていたそうで、「やっぱりヒョンチョルのお母さんの料理が一番美味いな。ドンギョンの女房はまだ若いだけあって年季が入っていない」とか言ってたが、彼は「トルコ料理なんて不味くて食えない」という人だから、あまりあてにならない。
ヒョンチョルのお父さんは養鶏場のキムさんの実弟、つまりヒョンチョルはスルタン・キムの従兄弟ということになる。ヒョンチョルも、91年、中学2年生の時にトルコへ来て、そのままイズミルで中高と終らせてエーゲ大学の経営学部を卒業した。

なんでも首席卒業だったそうである。彼の姉さんもどこだかトルコの一流大学を優秀な成績で卒業したと聞いている。彼の一族はスルタン・キムも含めて皆資質が良かったのかもしれない。

しかし、そんなにガリ勉している様子もなかったし、エーゲ大学の他の学生達は何をしていたのだろう。ただキャンパスでいちゃついていただけなのか?
ヒョンチョルのお父さん(キムさん)は以前、イズミルで家具を作って売っていたそうだが、5年ほど前にチェさんから現像機を購入して市内で写真屋を始めた。店番にトルコ人若い女性を使っているが、よくキムさん夫婦が店番していることもある。

私がそこへ居合わせた時、初めて来店したようなお客さんが来たりもしたが、どのお客も、たどたどしいトルコ語のキムさんを見たところで別に驚く様子もなく現像を依頼して当たり前に帰っていく。こんな風だから、キムさんの過度の飲酒癖にも拘わらず、なんとか商売になっているようだった。
イズミルでは、キムさんの他にもチェさんから現像機を購入して写真屋をやっているパクさんという韓国人がいる。パクさんは公園等に設置するコンクリート製の机やら椅子を製作する仕事もしていて、写真屋の方は韓国人の奥さんが仕切っているけれど、こちらの方は立地条件も良くて結構繁盛している様子だった。

50歳になる奥さんは、「商売っていうのは、休んじゃったらだめなんだよね」と言って、週に7日、毎日夜9時まで店に立っている。
店には、パクさんのベトナム戦争従軍当時に取った写真が飾ってあって、そこではベトナム人の捕虜と思われる男3人を数人の韓国人兵士が取り囲み、銃を掲げて「エイエイオー」をやっている。

パクさんは頑健な体つきで視線にも鋭いものを感じるが、昔、船乗りをしていた時に何度か日本へ行ったことがあるそうで、「日本は好い国です」と私にはいつも相好を崩しながら、日本の話をする。

これは別に愛想で言っているだけでもないようで、私と知り合う前から、周囲のトルコ人に、「韓国人もトルコ人よりは勤勉だが、日本人には全く敵わない。日本は凄い国だ」とふれまわっているので、その界隈では日本人の評判が一段と高まっているくらいである。
パクさんは88年にトルコへ移り住んで以来、コンクリート製品を作っては市へ納め、一時は大分稼いだという話だが、最近はトルコ人の業者も似たようなものを作り始めたので年々厳しくなっていると言う。今回会った時には、「不況のあおりで、先月から全然注文が来ない」とこぼしていた。
ところで、パクさんの奥さんは、パクさんよりずっと前、多分、1970年ぐらいにトルコ人男性と結婚してトルコへやって来たらしい。

しかし、ひとり娘を残してその男性は亡くなってしまい、その後パクさんと一緒になったという経緯がある。それで、スザンというトルコ名で呼ばれていて、私もこの名前しか知らない。
99年、私がイズミルに居た頃、スザンさんは韓国にいたお母さんを引き取ってイズミルへ連れて来たけれど、数人のイズミル在住韓国人と集まって茶飲み話をしている時に、これが話題になった。
「やっぱり、日本で育った人は違うね。なんか居ずまいがきちっとしているよ」
「えっ、誰のことですか?」
「スザンさんのお母さんなんですけどね。なんでも在日韓国人だったらしいんです。スザンさんがトルコへ嫁に来てから、またしばらくの間日本に戻っていたそうで、韓国語なんかあなたの方がよっぽど上手いくらいですよ」
当時はスザンさんのことを私よりちょっと上、43歳ぐらいと思っていたので、このお母さんも60代と仮定して、『そういう在日の人がいてもおかしくはないな』と考えていた。
しかし、今回この方にお会いして見ると、どうもそうではないらしく思われて来た。まずは一見して、相当なお年ではないかと思った。スザンさんが私を「日本人ですよ」と紹介すると、よどみのない日本語で、「日本はどちらのお生まれですか?」と私に尋ねる。
「東京です」
「そりゃ、結構ですね。私は山梨県甲府で生まれました。甲府は御存知ですよね」
「勿論です。ところでおばあちゃん、失礼ですけど御幾つになるんですか?」
「私? 私は大正10年の生まれだから、そう、どのくらいなもんかね。私は若い時、言葉の解らないところへ嫁に行って苦労しました」
山梨県には今でさえ在日コリアンがそんなに多く居住しているとも思えない。ひょっとして、この人は日本人ではなかったのか、という考えが頭に浮かんだ。翌日、スザンさんにその辺を確かめてみると、
「私たちも、お母さんの実家がどういうところだったのか全然知らないんですよ。嫁に来たのは日本統治時代だから、あるいはそういうことかもしれません。なんでも随分とお金持ちだったのが急に家運が傾いて、韓国へ嫁がなければならなくなったと聞いています」
スザンさんのお父さんはとても日本語が達者だったらしい。それから、スザンさんには妹がいて、88年頃に日本へ嫁に行ったそうである。
妹さんは、岐阜県に住む在日コリアンのもとへ嫁ぎ、スザンさんも、いつかは日本を訪れて見たい、それまでには少しでもいいから日本語を習っておきたいと言う。
「お母さんから習えばいいでしょう」
「だめよそれは、何しろあの年でしょ。お母さん、足の具合さえ良くなれば、まだ日本に行って働くことができるなんて言うのよね。それに自分の姉妹とかいるわけでしょ。日本へ行きたくて仕方ないみたい」
この日、スザンさんの娘にも会うことができた。彼女は25歳ぐらい、父親に似たのか、茶色の髪に碧眼で東洋人らしいところは全くない。

韓国語で知っているのは「アンニョンハセヨ」だけ。トルコの大学を卒業した後、現在はニューヨークで勉強していて、夏休みでトルコへ里帰りしているそうだ。

この時、娘と一生懸命になって話しているスザンさんが、トルコ語をそれほど巧く話せないと解って少々驚かされた。スザンさんが自分の母親と韓国語で会話する時も苦労しているのを考えると、その運命の不思議さを思わずにはいられない。

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