メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

元祖「ナターシャ」

トルコではロシアから春を売りに来る女性たちを「ナターシャ」と呼ぶことがある。ここでは、トルコの新聞ラディカル紙から、ゼキ・ジョシュクンという人の記事(2000年6月24日付け)を拙訳で御紹介する。
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ナターシャは20世紀の初頭に生まれた。5~6才に成った頃、周辺ではそれまで無かった妙に張り詰めた空気、騒動が始まっていた。ペトログラートで、モスクワで、キエフで、学生や労働者の決起が話題に上った。なんでも、冬宮殿が包囲されたらしい。
ナターシャには、決起も包囲もなんのことやら分からなかったが、悪いことであるのは明らかだった。その夏、マヨルカへ行き、そこからカプリへ移った。冬はパリで過ごした。こうして、1年経ったのか2年経ったのか思い出せないが、この長い旅行から帰って見ると、既に決起した労働者も扇動された農民の姿もなく、全てに秩序が戻っていた。
その後の10年はナターシャにとって幸せで平穏な日々だった。ところが、娘盛りになって舞踏会にも出席するようになった頃、戦争が始まってしまった。今度は、どこにも行く所がなかった。オーストリア、イタリア、フランス・・・どこでも戦争だった。大人たちは、待つことが必要だと言っていた。
戦争の終結を待っていると、労働者や学生がまた舞台に登場した。今回は兵隊に取られていた農民もこれに加わった。ボルシェビキとか赤とか言われていた。しばらく忘れていた子供の頃の記憶、あの妙に張り詰めた空気が周辺を取り巻いた。
息苦しい10月のある日、ペトログラートの陥落を聞かされた。ナターシャはもう17歳で、これが何を意味するのか分かっていた。皇帝が廃位し、その家族全員が捕われ殺されたということだ。その後、将軍や貴族、大地主が白軍を結成、赤を相手に戦争が始まったと伝えられた。
白軍がそこで赤を蹴散らしたという知らせが届いた。赤が打ち負かされてロシアが真っ白になる日を待った。しかし、当初の喜びや勝利の空気も日が経つに連れて萎れて来た。赤は全域で主導権を握っていた。
父親が白軍の将軍だったナターシャは、恐くなって婆やを連れ、キドゥロボスクからバトゥーミへ逃れた。1920年のことだった。ここから船に乗った。行き先はイスタンブール。皆がそこを目指していた。
ナターシャは友人や知人とイスタンブールで会うことができた。子供の時にも経験した長い旅行がまた始まった。家へ帰る時、イスタンブールの思い出にしようと、宝石やら衣服を買い込んだ。
しかし、希望の灯は見えてこなかった。お金も尽きた。友人の多くはフランスやアメリカへ渡った。残った者は、友人に会ったり、懐かしいロシアの空気を味わったり、新しい情報を仕入れるため、毎日のように、同胞がベイオールで開いたバーやクラブ、カフェへ出かけた。
赤を逃れてイスタンブールにやって来た貧しいロシア人たちは、カラキョイのロシア教会周辺に構成されたフカラペルベル・コミュニティーに身を寄せ、富裕層はぺラの辺りに住居を構えた。ここでの生活が長くなりそうだと感じたロシア人は、イスティックラル通りのぺラ周辺で25軒ほどのレストランやクラブ、バーを開店していた。
当初、お客としてそこに通っていた公爵や伯爵の子弟は、金も尽き希望も失せると、やはりまたそこへ行って、ボーイやらホステスをしなければならなくなった。キエフユダヤ人ウエインバウムがぺラ・パラスの向かいに開けたロゼ・ノイルは、こういった店の中でもとりわけ有名だった。
ナターシャも多くの同胞と同じ運命を辿り、ロゼ・ノイル-カラギュルで働きはじめた。しかし、いくらも経たないうちに常連の日本人、大使館勤務のタガミが彼女を囲うことになった。彼女にとっても毎日言葉も分からない色々な男と何時間も付き合うくらいなら一人の男と暮らすほうがよっぽどましだった。こうしてオスマンベイにある彼の家に落ち着いた。
昨日までお客を待っていたカラギュルで、ナターシャは得意客の一人になった。タガミと一緒にカラギュルで遊んだかと思えば、翌夕はマクシムを訪れたりした。マクシムは、ロシア女のステラが連れ合いの米国黒人トムと開業した店、その頃一番繁盛していて、流行の歌やダンスを楽しむことができた。
昼間はホステスをしている友人たちと遊び歩いたり、海水浴場へ行ったりした。夜は家で彼女たちと宴会を開くこともあった。しばらくするとタガミは、他のロシア女が家に入ることを禁止した。ナターシャが友人にばら撒いていた小遣いも制限された。
ちょうどその頃ナターシャは、やはりカラギュルで金持ちのオーストリア人と知り合った。彼はナターシャに体面を整えてやると約束し、手に手を取ってウィーンへ向かった。しかし、夢と約束は彼地で実現しなかった。ナターシャは、バカにしていた日本人タガミとの恋を再発見して、彼と手紙のやり取りを始めた。戻ろうとしたがビザが問題になった。タガミはトランジットのビザを用意した。
ナターシャはイスタンブールに戻ると直ぐカラギュルへ出かけた。そこで、ホステスのローラがトルコ人の客から性器をメッタ刺しにされて殺されたことを知った。みんな恐がっていた。ナターシャはローラの残した息子コティックを養子に引き取ろうと決意したが、ビザの期限が来てしまった。
それで、タガミを説得してハルキ島へ逃れた。周囲の目を気にして注意していたが、そのうちに息苦しくなって来た。タガミはナターシャをまたオスマン・ベイの家へ連れ込んだ。大使館では、スキャンダルにならぬようタガミの召還が決定されていた。
タガミは荷物をまとめて日本へ帰ることになった。ナターシャにも本国へ戻れるよう充分な金を与えた。出発の前夜、タガミが荷物を点検しているのを見たナターシャは、盗難を疑われたことに逆上し、彼を刺し殺してしまった。その後は、行方をくらまして、コティックと共にロシアに向かった。「母国は私達を滅茶苦茶にした。それでも母国が私達の慰めになるはずよ」と言いながら。
70年後、ナターシャの娘や孫、友人や同じ名を持った人たちが、またもイスタンブールに来ているのである。

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