メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アルサンジャック学生寮

トルコ暮らしも1ヵ月が過ぎて、ようやく周囲の様子も分かって来ると、まずは生活費を抑えなければと考え、「コライ・ペンション」から近くの学生寮へ越すことにした。
「アルサンジャック学生寮」、私はここで1年間を過ごすことになる。寮には、6人部屋が4室と2人部屋が8室、それに食堂と学習室があった。朝夕の食事が付いて、日本円で3万ぐらい。あくまでも営利目的で経営されていたから、現地の人にしてみれば決して安くはなかったはずだ。
大学生は格安で設備の良い公営の学生寮を利用できたので、この寮には大学生よりも予備校生の方が多く、高校生も数人いた。他に26才とちょっと歳の行っている専門学校生が2人いて、寮の管理をすることで寮費が免除されていたムスタファは、電気の専門学校に通っていた。彼は、経済改革を押し進めたオザル大統領の熱烈な支持者で、「トルコは競争社会にならなければならない」というのが口癖だった。
私が居たのは6人部屋で、予備校生が3人に、高校1年生で15才の少年と22才の大学生トゥファン、それに私と年齢も様々だった。
日本で高校生の時に経験した寮生活では、先輩後輩についてバカバカしい程うるさかったのに、ここでは、15才から30才までが皆で実に和気あいあいとやっていた。いじめのようなものも殆ど無かったように思う。これは多分、トルコの社会にストレスが少ないからなのだろう。もちろん良いことには違いないが、悪く言えば、それだけ緊張感のない弛んだ社会だということなのかも知れない。
この寮で外見上すぐに気がつく特徴は、国父アタテュルクの肖像画がやたらと飾ってあることだ。もちろん、アタテュルクの肖像はトルコ中どこへいっても嫌というほど目につくが、それにしても多く、入口の所だけでもかなり飾ってあった。
1年後、イスタンブールに移って、また3ヶ月ほど学生寮で世話になったのだが、そこにはアタテュルクの肖像画が申しわけに1枚飾ってあるだけで、後はアラビア文字によるコーランの文句がそこらじゅうに飾られていた。というのも、寮を経営していたのはイスラム教の団体であり、イスラムでは偶像崇拝が禁じられているから、本音を言えば肖像画は1枚も飾りたくなかったのだろう。イズミルの「アルサンジャック学生寮」では逆に肖像画をたくさん飾ることで、「ここでは宗教的な配慮は殆どしませんからそのつもりで」という意志表示をしていたとも考えられる。
その所為か、もともと宗教色の希薄なイズミルとはいえ、寮にいる40人近い学生の中で、毎日礼拝を実践していたのはほんの数名だった。礼拝所なんてもちろんないから、部屋のまん中でやるわけだが、ある学生はその前にアタテュルクの肖像画をちゃんと裏返しにしてから始めていた。部屋の中にも何十枚と飾られてしまったら、彼はさぞかし困ったことだろう。実際、この学生、翌年のラマダンを前にして、「こんな所で聖なるラマダンを迎えたくない」と言って寮から出て行った。
当然のことながら、ここで暮らし始めて、イスラムを意識するようなことも無く、宗教について尋ねられたら、遠慮しないで「無宗教」と答えたものだ。
ところが、夏になって、ある金曜日、朝からムスタファと買い物に出かけた時のことである。昼になって金曜礼拝を知らせるアザーンの声が街角のモスクに取り付けられているスピーカーから流れて来ると、ムスタファが急にそわそわして、
「マコト、どうしようかな。買い物は終ったし、君は寮に帰るんだよね。僕はちょっと礼拝してから行くことにするよ」と言う。私は何か意外な感じがしたので、そう伝えると、
「君はなにしろ無宗教って言っているし、あの寮じゃ、あんまり宗教の話をするのも何だから今まで言わなかったけれど、僕は結構信仰がある方なんだ。毎日の礼拝はともかく金曜礼拝には大概出ているんだよ」
その頃は、経済改革の立役者だったオザル大統領が敬虔なムスリムで、イスラムの復興に尽力したということも知らず、いつも産業化であるとか技術革新がどうのとか言っているムスタファとイスラムは容易に結びつかなかった。
アダナ出身のムスタファは、それから1ヵ月後、寮を出て郷里へ帰ったのだが、彼とは今でも親交がある。「競争社会」が好きなムスタファも当人はいたって穏やかで人情に厚く、古き良きトルコ人といった雰囲気。私にとっては何と言っても一番古いトルコの友人である。