メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコのクルド語事情(4)

02年の8月、トルコの国会では、クルド語を始めとする各民族語による放送と各民族語の教育を可能にする法案が可決された。(各民族語による教育を可能にするものではない)

92年に故オザル大統領が提唱して以来、10年も掛かってしまった上、EUへの加盟を念頭に置いて、EUの要求に従うような形で法案が用意されたのは残念な感じもするが、何はともあれ、問題解決のために第一歩が踏み出されたと言って良いだろう。

法案がまだ通る前から、既にイスタンブールの各ミュージック・カセット・CD店で、クルド語歌謡のコーナーが増えるなど、雰囲気は盛りあがっていた。

法案の可決後、トルコを代表する女性ポップ・シンガーと言えるセゼン・アクスが音頭をとり、イスタンブールイズミルクルド語やアルメニア語を交える大規模なコンサートを実現させて、クルド語を取り巻く環境は急に熱気を帯びて来た。

もちろん、クルド人だけではなく、アブハズ人等々も同様に民族語熱を高めている。

しかし、ラズ人のコミュニティーから、「ラズ語の教育は考えていない」というコメントが出されるなど、まだまだ慎重に事態の推移を見守っていたり、とまどいを感じている人達も少なくないようである。

法案が可決された頃、クズルックの工場ではこんな出来事があった。

英語を習っている男女の従業員二人がオフィスで英会話をはじめると、隣にいた英語は殆ど解からないチェルケズ人の女の子が、ムッとした様子で、「トルコ語で話しなさいよ。あなた達がそんなことするなら私たちはチェルケズ語で喋っちゃうからね」と向かいに座っている従妹の方を見る。

私は、『あっ、彼女たちチェルケズ語が解かるのか』と興味津々、早速訊いてみたのだが、彼女は「エへへ」と恥かしそうに笑い、「少し単語を知っているだけで話すことはできないんです」と言う。

英会話の彼女はアブハズ人で、私が覚えたばかりのアブハズ語の単語を口にしたら、ダーッとアブハズ語でまくしたてたくらいだし、もう一人の男はウルファ出身のクルド人クルド語もごく当たり前に話せる。

これでは、チェルケズの彼女は立つ瀬がないだろう。英語熱はともかく、民族語熱には抵抗があって、「トルコ語で話しなさいよ」という言葉には、それなりの意味が込められていたのかもしれない。

様々な民族からなるモザイクの上に成り立っていると言っても過言ではないトルコで、各々の民族的な主張を認めていたのでは社会の安定が保てなくなると危惧する人達は未だかなりいて、国会の採決でも、連立与党の一翼を担うMHP(民族主義行動党)は反対票を投じている。

現首相(02年8月現在)のエジェビット氏(民主左派党)は、「トルコ民族は特定のルーツに基づく自然発生的な民族ではない」と言い、ここまでは、トルコをアメリカ合衆国に準えたオザル氏の意見となんら変わるところがない。

しかし、オザル氏が、トルコに様々な民族の文化が存在する多様性をある程度認めていこうとしていたのに対し、エジェビット氏は、つい最近までクルド民族の存在さえ認めようとしなかった。

かつてトルコ共和国に対してイスラム主義による反乱を主導したシェイフ・サイドなるクルド人の孫であるというアブドゥルメリク・フラット氏は、2000年9月24日付けのザマン紙で、

「トルコの国内に存在する人間は皆トルコ人だ、なんていう理屈が通りますか? トルコ国内の木という木は全てポプラであるとか、トルコ国内に鳥がいればそれは皆コウノトリである、という法律を作れば事実が変わるのですか?」と語り、現存する多様性を認めようとしない体制を批判している。

また、エジェビット氏や歴代の大統領について、

「エジェビットの祖父の墓には『クルド人の子、ムスタファ・ベイ』と書かれているんですよ。御覧なさいトルコの大統領たちを、トルコ人なんかじゃありません。

現大統領のセゼル氏はチェルケズ人です。前大統領のデミレルはアルバニア人、オザルにもクルドが少し入っていました。

ジェブダット・スナイはギリシャ系(ムスリムへの改宗者)、ジェラル・バヤルはタタール人(これはトルコ系)、イスメット・イノニュに至ってはクルドの豪族出身でした。」と明らかにし、

現実を見れば、クルド人がその他のトルコ人(チェルケズ人やアルバニア人を含む)と共存していくことに問題はなく、トルコからの分離を望んでいるクルド人は5%にも満たないとしていた。

民族的な出自や人種による差別が少ないトルコの社会で、クルド人が差別に対して抗議するようなことは余りない。政財界で活躍するクルド人はいくらでもいる。しかし、クルド人の大統領が何人誕生したところで、問題の解決には繋がらないだろう。

彼らは「クルド人の民族性を認めて区別してくれ」と要求しているのである。

トルコには、外国人を掴まえて窮状を訴えるクルド人がかなりいるが、これはちょっと背景を確かめて見る必要があるかも知れない。

93年~94年にかけて、イスタンブールで度々会う機会のあったベルギー人の青年は、クルド人の訴えに同情し、何人ものクルド人と付き合って、彼らの話を熱心に訊いていた。

ところが、クルドの人たちは、段々親しくなって来ると、決まったように「難民としてベルギーへ入国するために力を貸してくれないか」と持ち掛けてくるので閉口したと言う。

(トルコの人達は往々にして、欧米へのキップを手に入れることが、金持ちになる近道だと思っているようだ。しかし、昨今、欧米の門はトルコの人達に対して固く閉ざされていて、簡単には入国できない)

ちょうど同じ頃、私は、カルス出身でイスタンブール大学の学生であったクルド人の青年と親しくしていたのだが、クルドの問題について根掘り葉掘り訊こうとすると、「トルコにはクルドの問題しかないのかな? もううんざりだよ、そういう話は」と言われてしまった。

しかし、後になって、この学生が、あのベルギーの青年と懇意にしていたと知って驚いた。彼も、父親がベルギーで弁護士をしているという青年の前では、弾圧されるクルド人の窮状を訴えていたのだろうか? そんなことは考えたくもないが、現在、彼はベルギー人の女性と結婚してベルギーで暮らしている。

今日のトルコ語で民族や国民を意味するミレットという言葉は、オスマン朝の時代、「ムスリムのミレット」「ギリシャ正教徒のミレット」というように人々を宗派によって分けるために使われていたそうである。

現在のトルコ・ミレットの母体となったのは、中央アジアのトルコ民族ではなく、正にオスマン朝の「ムスリムのミレット」であったに違いない。

このミレットの中にはクルド語を話す人たちもいれば、アルバニア語等々を話す人たちもいた。彼らは、彼らのミレットを守るためにトルコ民族主義という新しい概念を生み出したのではないだろうか?

オスマン朝の末期にトルコ民族主義を提唱し、その運動の先頭に立ったズィヤ・ギョカルプという人物はディヤルバクルの出身であり、クルド人であった可能性もある。

クルド人の知人に尋ねてみたところ、「間違いなくクルド人です」と決め付けていた。もちろん、トルコの教科書にはそんなことが書かれているわけもなく、あくまでもトルコ人として描かれている。

しかし、トルコでも最近は、トルコに様々な民族的ルーツがあることを認めるばかりでなく、ある程度の多様性を残していくことが文化的な豊かさをもたらすと考える人達が増えている。


以前、イスタンブールでお世話になった韓国人のキムさんは、米国やパナマで暮らした経験から、「トルコほど、人種や民族に対する差別が少ない社会はない」と断言する。

私は、なにしろトルコと韓国以外の国は、ギリシャにちょっと出掛けたことがあるだけだから、断言とまではいかないが、キムさんの意見に同感である。

各民族語の価値を認め、多様性を受け入れたトルコはいよいよその潜在力を発揮できるはずだと思っている。