メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

娘さんには御用心

工場で私は通訳として働いているが、この仕事、どうも私には向いていないようだ。トルコ語力が充分でないというのはもちろんのこと、通訳には運動神経ってものが要求される。
つまり、ボールを受け取ったら、正しい方向へ直ぐに投げ返さないといけない。私は極めて鈍いもんで、ボールを受けてから、うーんと考えたあげくフィルダースチョイス。ボールを受ける前から投げ返す先を考えていると今度は後逸、といった具合で悪戦苦闘の連続である。
慌てなくても済む翻訳はその点で楽と云える。しかし、トルコ語で正しい文章がなかなか書けるもんではない。それで、大事な文書の場合は、クズルック工場の事務所で向かいの席に座っている女性に校正を兼ねてパソコンで打ってもらう。
彼女はチェルケズ系で名前がメレッキ、トルコ語で天使のこと。実際、余分な仕事を頼まれても嫌な顔ひとつしない真に天使のような女性だ。チェルケズには細身の美人が多いという通説も彼女を見れば納得。仕事は早いしミスも少ないので、まかせて安心、私の変なトルコ語も的確に校正してくれる。
彼女、スカーフこそしていないが、コーランを少しアラビア語で読んだりして結構敬虔なのかもしれない。村娘の中には、慣習からスカーフはしているものの、煙草もスパスパ吸うし、昼休みには男子工員とワアワア言いながらバレーボールに興じるような娘もいて、そんな娘たちよりよっぽど信仰がありそうだ。
メレッキさんの隣に座っているのがゼイネップさん、彼女はきっちりスカーフをしている。煙草もスパスパなんてことはないが、コーランの文句を良く知っているような雰囲気でもない。子供っぽい可愛らしい顔に似合わず、なかなか負けん気が強いらしく、事務所で働きたいと、町のパソコン教室で一生懸命勉強したのだそうである。
しかし、ゼイネップさんに、ちょっと難しいトルコ語の単語を訊いたりすると答えられなかったりするので、彼女には校正を頼まないようにしていた。
ある日のこと。メレッキさんに下書きの校正をお願いしてから暫くして、通り掛かりに何気なく、ゼイネップさんの席を見ると、さっき渡した下書きが彼女の前に置かれている。
それで、「あの、メレッキさん、この下書きはやっぱりあなたに校正してもらわないと困るんですよね」と言ってしまったらその刹那、ゼイネップさん、その下書きの束を無造作に掴むが早いか、それをメレッキさんの席へ向かってバシャッとホン投げたのである。
「ゼイネップさん」と声を掛けたものの、彼女は怒気を含んだ険しい表情でパソコンの画面を見つめたまま、こちらを振り向いてもくれない。私はもうオロオロしてしまって、「ゼイネップさん誤解しないで下さい。これ、あのメレッキさんに最初頼んだんで・・・」とかなんとか言い繕おうとしたのだが、彼女は真っ赤になってプイと横を向いてしまった。
メレッキさんの方を見ると、彼女は「こういう時はそっとしておくのが一番よ」とでも言うような感じで静かに微笑んでいる。私はそのままオロオロと自分の席に戻った。
それから正に3日間というもの、ゼイネップさんは私と全く口を利いてくれなかったのである。
3日目、彼女たちの机の引出しから、いつのものとも知れぬチョコレートが1箱出てきて、どうも1年くらいは経っている代物のようだ。

私はメレッキさんに、「どれ、私がひとつ毒見をしてあげよう」と言って、そのチョコレートを1個もらうと口にほおばり、ちょっと間を置いてから、「ううっー」と目を剥き、おどけながら苦悶して見せた。

メレッキさんはいつもの如く静かに微笑んでいるだけだったが、ゼイネップさんは腹を抱えて笑っている。私はホッとしてアホな道化を止めることができた。