メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコの民族事情/「蒼き狼」の末裔

子供の頃、といっても中学生の時分であるが、トルコという国に興味を覚え、図書館へ行って調べたりしたことがある。
西の彼方、ヨーロッパのすぐ隣にトルコという国があり、住民の9割近くを占めるトルコ人は、モンゴル人に近いアジア系の民族で、遊牧をしながら彼の地に移り住んで国を建てた「蒼き狼」の末裔である・・・。

この話を聞いて、それなら私たちと同じような顔をした人々がそこに住んでいるのかと想像をめぐらした。

また、その頃はソビエトといえば皆ロシア人であるとばかり思っていたので、モンゴルからソビエトを挟んで遠く離れたトルコにアジア系の人達が暮らしている、そんなことが何かとても不思議に感じられたのだ。
ところが、百科事典などを捲って、写真で紹介されているトルコの人達を見ると、全くといって良いほど殆どが西洋風な顔立ちで、どこにもアジアの面影はない。その時は、これで何だかがっかりしたことを思い出す。
ずっと後になって、トルコ語を学び始めてから、今度は言葉の構造とか、語尾に「~ヤ!」なんていう感動詞をくっつけて話すその雰囲気が、日本語や韓国語に大変良く似ていると解かり、そこにアジアの面影を見出すことができた。
それで、初めてトルコを訪れた頃は、人々の風貌の中に、シルクロードを伝わって来た血の痕跡のようなものを探そうとしたのだが、そのうち、果たしてこの人達にモンゴロイドの遺伝子がどのぐらい受け継がれているのか、と疑問を感じるようになった。
稀に、如何にもモンゴロイドといった印象を与える人たちもいる。しかし、大概はタタール族とかウズベク族、トュルクメン族のような、20世紀以降に中央アジアから移住して来たトルコ系民族の子孫である。
現在のトルコ共和国の地へ、トルコ系のオウズ族が侵入を開始したのは、10世紀~11世紀のことであると言われている。

その後、ギリシャ系を初めとする多様な民族からなる先住民と混血を繰り返しながら徐々にこの地域のトルコ化が進んだというけれど、現トルコ人の容貌を見る限り、先住民の血の方がかなり濃いのではないかと思わざるを得ない。
トルコ人の間でも、「アダナ(地中海沿岸のトルコ第4の都市)の人たちは、元を正せば皆アラブだ」とか「エーゲ海地方なら、先祖はギリシャ人と思って間違いない」というようなことが良く囁かれている。

トルコとギリシャの関係は芳しいものではないが、トルコ人にとって「先祖はギリシャ人」というのは、別に不都合なわけでもないようだ。
トルコ人の友人が、「私たちの先祖であるアリストテレス」と頻りに言うので、
ギリシャ人が聞いたら怒るよ」と言ってやると、
「えっ、だってアリストテレスギリシャ正教徒じゃなかったんですよ」
「そんなこと言ったって、ムスリムでもなかったでしょう?」
「えー確かにそうです。でも彼はアナトリアの出身なんですよね。その子孫は皆ムスリムになったはずです」
「しかし、アリストテレスギリシャ語を話していたんじゃないんですか?」
「そうかも知れませんが、ムスリムになった子孫はトルコ語を話しているんです」
これとは逆に、先祖が中央アジアから来たことを誇りに思っているのかどうかは、ちょっと怪しい。

あるトルコ人から「ずっと東にも日本人という優秀な人たちがいるおかげで、我々は先祖がモンゴル高原にいたことを恥じなくてすみます」と言われて、とても複雑な気分になってしまったことがある。
このような次第で、トルコに滞在して1年も経たないうちに、トルコ人は「蒼き狼」の末裔という幻想は見事に打ち砕かれてしまった。

しかし、それと同時に、この国で見られる民族ということへの風通しの良さ、つまり、民族の違いをそれほど意識せずに済む気楽さのようなもの、そこに魅力を感じるようになったのである。
ただ、クルド人に関しては、民族的な問題がないわけでもないらしい。
98年、イスタンブールで働いていた時のこと。事務所で電話番をしていたトルコ人のおばさんが新聞を読みながら、
「やっぱりクルドの人たちは虐げられているのかねえ。同化政策により自分たちの文化が失われていくってちょっと可哀想だよ」と誰に言うともなく呟くと、横で聞いていたいつもは軟派な青年が珍しくきっとなって、
「おばさん、それじゃ僕のところも虐げられてるっていうのかい。うちは両親ともクルドなんだよ」
おばさんはポカンとした顔をして青年の方を見ながら、
「あれまあ、あんたはクルド人だったの。そりゃ、あんたのところはお父さん税務署の署長なんだから虐げられているってことはないわよねえ」と言ったきり考え込んでしまった。
おばさんは、スラッと背が高く碧眼金髪、とてもトルコ人とは思えない風貌で、「よく、ドイツ人ですか、なんて訊かれることがあるのよ。うちはボスニア系なんだけどね」と話していたことがある。
ボスニア人であれば、オスマン帝国の時代、便宜上イスラムへ改宗せざるを得なかったスラブ人の子孫であるに違いない。彼らが父祖の文化の多くを失ってしまったのは言うまでもないだろう。
トルコ共和国は西欧化を目指して、全く新しい国民・民族を作り上げようとしたのであって、既存の民族に他の民族を同化させようとしたのではなかったと言っても間違いではないかも知れない。果たして、この新しい民族へ同化されていく過程で、同化政策の対象にならなかった人達はどれくらい居たのだろうか。