メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

高温サウナで免疫力もアップ?

1月8日の金曜日は、神戸でも雪がちらついた。京都辺りでは相当な積雪があったらしい。

この金曜日を挟んで3日ほど休みが続いたので、泊りがけでカプセル付きの神戸サウナに出かけてみた。ここは露天風呂もあるから、ちらつく雪の中で温泉気分を楽しむこともできる。

コロナ騒ぎのため、サウナは結構空いているだろうと思っていたけれど、そうでもなかった。やはり、同様に温泉気分を楽しもうとする人たちが多かったのかもしれない。

神戸に出ると、元町を歩いている時に雪がちらつき始めたので『予報通り!』と喜びながら、生田神社近くの神戸サウナへ急いだ。

露天風呂に入った頃は、雪も「ちらつく」から「小降り」ぐらいになり、冷たい風も強まったお陰で、余りのぼせることもなく、30分近く湯に浸かっていた。

その後は、冷水~サウナを何度も繰り返し、トルコ式のハマムも楽しんで、体も頭もふにゃふにゃになってから、館内レストランに行って生ビールを飲みほした。クリーミーな泡立ちで実に美味かった!

トルコで生ビールを頼むと、キンキンに冷えたビールを全く泡立たせずに目一杯まで注いで持ってくる。暑い夏の日はあれも良かったと懐かしく思い出すが、やっぱり生ビールは泡立っているべきだろう。

このところ、うちでは殆ど飲まなくなった所為か、大生に中生を追加しただけで酔いが回り、カプセルで8時間も寝てしまった。適度のアルコールが安眠をもたらすのは事実であるかもしれない。だからと言って、うちで飲むのを再開させるつもりはないけれど・・・。

うちで飲まなくなったのは免疫力を低下させないためだが、ダイエットも兼ねている。飲めば食べる量も多少増えてしまうからである。

サウナ等で体温を高めると免疫力が強化されるのは確からしい。逆に低体温が続くと免疫力が損なわれるばかりか、癌のリスクも増大するという。

今読んでいるトーマス・マンの「魔の山」は、アルプスの山中にある結核サナトリウムを舞台にしているけれど、結核の患者を寒い山の中で「療養」させていたのだから恐ろしい。

もっとも、その頃は「免疫力」も未だ明らかにされていなかった。乾燥した山の空気が結核には良いと考えられていたそうだ。お陰で多くの患者が死期を早めてしまったのではないか?

しかし、現代の日本で、コロナ騒ぎのため、教室の窓を開け放ち、凍える寒さの中で授業を進めている小学校があるというのは、ちょっと理解し難い。

子供たちがコロナで重篤化するリスクは殆どないと言うものの、寒さによる免疫力の低下はインフルエンザ等のリスクを高めてしまいそうである。いったいどうなっているのだろう?

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スポーツマンシップとファイティングスピリッツ

《2017年1月24日付け記事の再録》

雑誌か何かで読んだ話だけれど、日本のスポーツ選手の多くは、相手に反則があると、それを審判にアピールして防ごうとするものの、欧米の選手などは黙って同じ反則をやり返すという。
これでは、なんだかスポーツの精神に反しているような気もするが、“スポーツ”の語源は“狩猟”にあると言われ、非常に闘争的なものだから、ファイティングスピリッツに欠ける行為よりは、こちらの方が遥かに健全らしい。
それどころか、日本の武道に見られる「礼に始まって礼に終わる」というのは、スポーツの精神とは相いれないそうである。スポーツでは、勝利をもぎ取るために全力を尽くし、勝者は栄冠を手に入れ、敗者は全てを失う・・・。
大相撲の場合、入門した力士は精進を重ねている限り、部屋から追い出されたりしないが、日本のプロ・スポーツの世界でも、これは例外じゃないだろうか? それこそ、メジャーリーグ等になると、敗者は情け容赦もなく、切り捨てられてしまうらしい。
大航海の時代から産業革命を経て、西欧が世界の覇者となった背景には、このスポーツの精神も横たわっているような気がする。戦争や経済発展は、こういった精神によって支えられていたかもしれない。
だから、「平和の祭典オリンピック」などと言うのは、かなり矛盾していると思う。ひょっとすると、「平和」と「発展」も、二律背反する概念であり、実際は、社会の発展を阻害し、停滞させてしまうことが、平和へ至る道ではないのか?
例えば、かつてサウジアラビアでは、女性を家の中に閉じ込め、男女は、親族の取り決めに従って、お互いの顔を見る前に結婚させられていたそうだ。
この制度に対しても、「女性蔑視だ!」などと騒ぎ立てる前に、「女性を奪い合う必要のなくなった男の闘争本能は弱まり、社会はめでたく平和と停滞を迎える」なんて考えて見るのはどうだろう?
しかし、数世紀前から、スポーツ競技場のように、熾烈な競争の場と化してしまった世界で、発展を放棄すれば、それは全てを失う結果に繋がりかねない。
また、自分たちが充分豊かになった後で、「もう競争は止めよう」という勝ち逃げは、許されないばかりか、今からリーグ戦への出場を虎視眈々と狙っている新興国の人たちに対して、余りにも侮辱的であるような気がする。

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アメリカの春「ハゲのイーグル革命」?

米国はいったいどうなってしまったのだろう? 

4年前、トランプ大統領の就任前にも小規模のデモ騒ぎがあり、トルコ・サバー紙のメフメット・バルラス氏は、それを「アラブの春」になぞらえて「アメリカの春」などと皮肉っていた。

しかし、今回の騒ぎは、4年前とは比較にならない本格的な「春」になってしまいそうだ。

アラブの春」はチュニジアの暴動に始まり、その暴動から政変に至る過程は、チュニジアを象徴する国花がジャスミンであることから「ジャスミン革命」なんて呼ばれたりした。

アメリカの春」がそこまで至るとは思えないが、これを米国の象徴であるボールド・イーグルにちなんで「ハゲのイーグル革命」とか言いながら煽ってみたくなる。米国のメッキがはげて地金が出てしまった「イーグル革命」だ。

一方で「米国人は相変わらずパワフルだなあ」という妙な感動も覚えてしまった。あのエネルギーは何処から湧いて来るんだろう? とても我々には真似できそうもない。食べているものが違うのか? 

エネルギーの使い方が間違っているのはもちろんだけれど・・・。

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「親日VS反日」

《2013年5月8日の記事を一部書き改め省略して再録》

相変わらず日本のメディアは、「反日」にギャーと叫び、「親日」にヒャーと喜ぶ。そして、「親日国トルコ」で盛り上がろうとする。

もちろん、トルコにも親日的な人はたくさんいるけれど、政府が特に親日的な政策ばかりを進めているわけじゃない。また、親日的な人たちが、その他の国々に比べて極端に多いわけでもない。反日的な人は割りと少ない方かもしれないが・・・。

そもそも、親日的な政策ばかりを進めている国など、世界の何処にあるのだろう?

親米的な国ならたくさんある。政治的に、あるいは経済的に、米国の強い影響下にある国々がそれで、日本はもちろん、トルコも冷戦の時代は明らかに「親米国」だった。しかし、当時も、トルコで「嫌いな国」のアンケートを取ったら、おそらく1位は米国になっていたと思う。

およそ、普通の人間関係でも、自分のことを牛耳っている人物に親しみを感じる人は余りいないはずだ。だから、多くの親米国で大半の人たちは、米国に余り親しみを感じていない。それどころか、憎んでいたりする。

日本も、かつて東アジアに覇を唱えていた頃は、幾多の国々を牛耳っていたから、「親日国」も存在していたのではないか。例えば、満州国大韓帝国などである。

個人的に「親日」や「親米」になるのと、国をあげて「親日」や「親米」になるのとでは、意味が異なって来るように思える。

また、個人的な「親しみ・好き」という感情には、敬意が含まれている場合もあれば、上から目線で「可愛らしい」と感じているだけの場合もある。

我々、平和で優しい現代日本人の多くは、多少、上から目線で親しまれても、これを喜んで受け入れそうだが、例えば、ロシアのプーチン大統領などはどうだろう? 

「日本人の多くが、ロシア可愛い、好きと言ってます」なんて報告受けたら、「まだ俺たちのことを恐れていないのか、もう一発ビビらせてやれ」とでも言いそうな気がする。

もちろん、これは冗談で、そんなこと言わないと思うけれど、日本でタカ派的な論陣を張り、拳を振り上げて、反日を糾弾している人たちが、「親日」に喜んでいるのを見ていると、何だか情けなくなってしまう。

雄々しいタカになりたいなら、方々を牛耳って、「親しみ」など断ってしまえば良い。親日より反日が増えることを望むべきだ。

親日を増やすのは簡単だろう。金をばらまけば、いくらでも親日になってくれる。

反日を増やすのは簡単じゃない。80年代の憎々しいほど強い「経済大国日本」を再現できれば、反日も増えると思うが、これは可能だろうか?

まあ、ここまでは冗談だが、韓国とトルコを比べてみると、韓国は日本との関係が濃密であるため、とても親日的な人が多い代わりに反日的な人も多い。

日本と取引があったり、日本人の友人がいたりして、心情的には日本が好きだけれど、政治的には「反日」という人もいる。

トルコの場合、日本との関係は、まだ希薄であるため、とても親日的な人はそれほど多くない代わり、反日的な人も余りいない。経済摩擦などもないからだ。

「何となく日本が好きだ」という人はかなりいるだろう。でも、日本と取引があったり、日本人の友人がいたりする人は、韓国に比べたら、ほんの僅かに過ぎない。

しかし、これから経済的な関係が発展したら、摩擦も生じれば、反日的な人も増えるのではないか。その代わり、日本との関係が濃密になって、親日の度合いも増してくるに違いない。

それから、韓国の政治的な「反日」だが、これはある程度仕方ないと思う。かつて日本が、朝鮮の独立を奪い、朝鮮の人々を差別した歴史的な罪が消え去ることはないのだろう。これを帳消しにする為には、再び米国と戦争して勝ち、世界に覇を唱えるより他になさそうだ。そんなことを本気で考える人がいればの話だけれど・・・。

  

 

トルコの親日家?

2013年の3月だったか、長年日本と関わってきたトルコ人の友人から、思い切り日本への不満をぶつけられてしまった。

― いつまで経っても、“親日トルコ”といった陳腐な紹介を試みようとする。まるで、親日だから相手にしてあげるようだ。何処までトルコを馬鹿にしたら気が済むのか。近隣の国々と友人になれず、親日国を探して世界を彷徨い、トルコと友達になりたくてしょうがないのは日本のほうだろう。―

確かに、日本のある人たちが語る「親日トルコ」には、トルコを小馬鹿にしたような雰囲気を感じたりする。

SNSで「親日トルコのオルレアン首相・・・」という投稿に驚いたこともあった。オルレアン首相っていったい何処の国の人なのだ? 

おそらく、この人が興味を持っているのは「親日」だけであって、「トルコ」の方はどうでも良いのだろう。だから、トルコについては何も調べていない。首相の名前も解っていない。この人のハンドルネームがまた凄かった、「アンチコーリア」である。

こういった「親日トルコ」願望には、『顔つきなどを見ているとヨーロッパ的なところもあるけれど、アジアの国らしいから、西欧に対するコンプレックスを感じなくても済む・・・』といった心情が潜んでいたような気もする。

しかし、親日的なトルコの人たちの一部にも、それと余り変わらない心情は見られるかもしれない。『西欧人のようにトルコを見下したりしない、対等かこちらが少し見下しても構わないアジアの友人』として日本を見ているのではないか、そんな風に感じてしまったこともある。

2011年頃、アナトリア通信の友人に呼ばれて、新聞記者協会の立食パーティーにのこのこ出かけたところ、4人ぐらい集まって談笑していた老齢のジャーナリストに呼び止められた。

その80歳は過ぎていたと思われるジャーナリスト氏は、「日本人? 日本人は凄いね、船に玩具の材料を積み込んで、太平洋を渡る間に組み立ててしまうというんだから賢いよ」とだけ言って笑い、『君はもういなくなって宜しい』という手振りで私を解放してくれた。多分、相手がいくら若くても、欧米人にああいう態度は取らなかったのではないかと思う。

マリアさんの友人で、2009年の9月に86歳で亡くなったアルメニア人のガービおじさんも、トルコ語アルメニア語、イタリア語、フランス語をこなし、ギリシャ語と英語もかなり解るというインテリだったから、日本の歴史にも詳しく、東郷平八郎山本五十六を盛んに称賛していた。

ところが、機嫌が悪かったりすると、何処で観たのか映画「楢山節考」のストーリーを持ち出して、次のように語ったりしたのである。

「日本には爺さん婆さんを山に捨てる習俗があったらしい。まあ、文化も文明もない野蛮な国だったからな。こうやって足を縛り付けて、ドンと突き落としたら、コロコロ転げて落ちて行くんだよ。ハハハハハ」

特に、「ドンと突き落としたら、コロコロ・・・」が面白かったらしく、ジェスチャーを交えて何度も愉快そうに繰り返しながら大笑いしていた。

なんだか、こうした見聞で、東郷平八郎を称賛したりしたこの世代のトルコの知識層が、実際には日本をどう見ていたのか解るような思いがして、私は半分納得しながら非常にがっかりした。

西洋文明の揺籃の地に栄えたオスマン帝国の末裔にしてみれば、当然、そのように見ていたのだろう。「東洋の野蛮国がロシアやアメリカを相手になかなか頑張った。褒めてやりたいよ」ぐらいの気持ちだったのかもしれない。

また、2011年の1月だったと思う。日本通の「親日家」を自称して、日本語もある程度話せる同年輩のトルコ人女性から、ある会合への出席を依頼された。

彼女は、そこで日本について説明しなければならなくなったものの、全ての質問には答えられないかもしれないので、私に手伝ってもらいたいと言うのである。

しかし、その“日本についての説明”ときたら、「日本語も中国語も全てウラル・アルタイ語族である」とか、「日本人の祖先はアイヌ人である」とか、『???』という話ばかりで、「私の説明に間違いがあったら直してください」と言われても、全く直しようもない代物だった。

会合の後、女性の友人である“退役トルコ軍将校”も交えて、3人で雑談しながら、日本映画の話題になると、彼女は「今まで観た日本映画では、“楢山節考”が一番好き」と嬉しそうに話し始めた。

それを聞いているうちに、ガービおじさんの「ドンと突き落としたら、コロコロ・・・」を思い出し、彼女の言い方にも、充分に嘲笑的な雰囲気が感じられたため、私は思わずムッとして言い返した。

「ああイマムラの映画ね。観ていませんが、イマムラはそういう映画を良く作ります。あれはスキャンダラスな監督ですよ」

そうしたら、退役将校は『あっ、この日本人、むきになって来たぞ』と思ったか、ハハハハと愉快そうに笑い、それがあまり嫌味な笑い方でもなかったので、私もつられて笑ってしまったが、彼女は「えっ? イマムラって何?」なんて言い出したのである。

「その“楢山節考”の監督ですよ」

「嫌だわ、あれってクロサワの作品じゃなかったの?」

これでもう何も言い返す気がなくなった。凄い「親日家」である。まあ、さすがに、こういう親日家は、私と同じ世代か、それ以上の年配者に限られていると思う。今のトルコの若い人たちは、特に親日を強調しなくても、私より、よっぽど最近の日本映画に詳しかったりする。

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「トルコの魅力は親日なのか?」

《2008年9月4日付け記事を修正して再録》

トルコは良く親日国と言われているものの、トルコのマスコミで日本が話題になることは滅多にない。全般的に日本への関心は極めて低いように思える。

トルコの人々に、アンケートで“好きな国”を問うた場合は、日本が上位に登場するそうだが、日本と答えた人々は果たして日本の何に魅力を感じたのだろう?

ワールドカップ日韓共催で開かれた頃、取材で日本を訪れたある左派のコラムニストが、次のように記していたのを読んだ覚えがある。

「・・・イスラム主義者たちが“伝統を維持したまま近代化を成し遂げた日本”などと称賛していたものだから、私は日本が大嫌いだった。しかし、実際にこの国を訪れてみたところ、街角や人々の様子は至ってモダンで何処にも伝統は感じられないし、熱心に宗教を信じている人たちもいない。私はたちまちこの国が好きになってしまった・・」。

これでは、褒められているのか貶されているのか分かったものではない。

91年、初めてトルコへやって来て、イズミルトルコ語教室に通っていた時も、トルコ人の講師が日本について殆ど何も知らなかったことに驚かされた。

ドイツ人の受講生は未だいくらか知っていた。あの教室で日本について最も良く知っていたのはアメリカ人の受講生だったと思う。まあ、彼らは、トルコ語を学んでいる非常に珍しいドイツ人やアメリカ人だったわけだけれど・・・。

87年から88年にかけて滞在した韓国では、マスコミに日本が登場しない日など有り得ないどころか、日本は人々の日常生活の一部になっていたような感じさえした。

2003年に韓国を訪れて、ソウルで地下鉄に乗ったら、車内に張り出されていたクロレラという商品の広告に「・・・日本の人たちは毎日クロレラを飲んでいます」と書かれているのを読んで『相変わらずだなあ』と呆れてしまった。

88年当時も、“日本で流行っています”とか“日本の人たちからも愛用されています”というのはコマーシャルで良く使われる落とし文句だった。

私は韓国で“日本に対する畏敬の念”を人々に感じたこともある。最近(2008年頃)のよろよろした日本に最も憤慨して残念に思っているのは、意外に韓国の人たちであるかもしれない。『どうしたんだ日本?! しっかりしてくれ! お前は俺たちの目標なんだぞ!』なんて歯軋りしているのではないだろうか。

あれだけ日本に親しんでいる国、つまり親日的な国は余りないはずだ。しかし、実際に親日的と言われているトルコで、韓国に見られるような“日本への熱い思い”を感じたことは殆どない。

しかし、韓国語を学んでから韓国の会社で働き、韓国の人たちと密接な関係を持っていた頃は、その“日本への熱い思い”に堪えられないほどの息苦しさを感じていた。

結局、堪え切れずにトルコへ逃げ出した時、トルコが少なくとも“反日的な国ではない”というせこい考えが頭の片隅にあった事実を認めないわけには行かない。

それが、トルコ生活も長くなって、トルコへの思い入れが強まるにつれ、“トルコは親日国”という括り方に何だか不満を覚えるようになってきた。

申し上げたように、“実際、それほど親日的か?”という疑問もあるけれど、それ以上に“トルコの売りは親日だけなの?”という不満がある。

例えば、「三国同盟で一緒に第二次大戦を戦ってくれたから」といってドイツとイタリアが好きになった人であるとか、元大統領が日本の文化に親しみ大の相撲ファンだったからといってフランスに魅了された人が、そんなにいるとは思えない。

この国々は、親日的であろうとなかろうと充分に魅力があると思われているから、何も親日を売りにする必要などないのだろう。

私に言わせれば、トルコだって親日的であろうとなかろうと充分に魅力的な国なのである。その歴史、文化、ぬくもりが感じられる人々、そしてトルコ語。魅力はつきないと思う。

もちろん、日本とトルコの両国で、もっとお互いに関心を抱いてもらいたいとは願っているし、そのきっかけとして“親日”は有効であるかもしれないが・・・。

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「デトックス(解毒)と大手術」

《2016年2月2日付け記事の再録》

ウィキペディアの記述によれば、人間の“便”の大部分を構成しているのは、「水分(60%)」と「腸壁細胞の死骸(15%~20%)」「細菌類の死骸(10%~15%)」などで、食べ物の残滓は5%程度に過ぎないらしい。
体内に蓄積されていた毒素も含まれているというから、まさしく「汚物」で、溜めずに排泄しないと、様々な悪影響を人体に及ぼす。便通が良いのは、やっぱり健康の証に違いない。
さらに、自然には排泄され難い毒素を取り除く「デトックス(解毒)」というのも、最近流行っているそうだが、そこまでやる必要があるのかどうか良く解らない。
自然に任せておいても、そういった毒素の蓄積が許容範囲を越える前に、本体の人間という「毒」がデトックスされているのではないだろうか?

地球に蓄積される「毒素」についても様々な議論がある。温室効果をもたらす二酸化炭素オゾン層を破壊するフロンガス、そして放射能と各々の危険性が指摘されているけれど、専門知識のない私には、いずれの説も解り難い。
しかし、こちらも何だか、議論の答えが出る頃には、「毒素」をまき散らしている人類そのものが滅亡しているような気がする。人間の寿命が尽きるように、人類も滅亡すれば、地球もいずれ無くなる。これには議論の余地などないはずだ。

それから、社会における「汚物」とその排泄も、やはり人間の体の営みに似ているかもしれない。
人間の腹に、いつも「汚物」が溜まっているように、不正や犯罪のない社会は有り得ないけれど、それが正常に排泄されていれば、社会も健康を維持することができる。
ところが、現在のトルコは、国家機構の内部に巣食っているとされるフェトフッラー・ギュレン教団の組織、それから、南東部の各地に立て籠もっているPKKの組織という異なる種類の「汚物」を排泄しようと躍起になっていて、これがまたいずれも正常な排泄とは言い難い。
蓄積された「汚物」が放っている「毒素」も非常に強いため、致し方ないのかもしれないが、ギュレン系に対しては、強い副作用を伴う無理なデトックス療法、PKKには、さらなる危険が伴う乱暴な外科手術で、既に大量の出血を余儀なくされてしまった。
ギュレン系のデトックスでは、政権与党AKPの党内にいるビュレント・アルンチ元副首相のような大立者がどういう扱いを受けることになるのか注目されている。
一方、PKKを切断排除する大手術は、地域のクルド人住民からも一定の支持を得たと言われているが、PKKに反旗を翻した住民たちも、決して「AKP政権や軍そのもの」の支持に回ったわけではないそうだ。
彼らは、90年代に多くのクルド人が謀殺された事件の解明を望んでいるだろう。この事件には軍の関与が囁かれている。彼らの恨みは大きいに違いない。
しかし例えば、体内に入り込んだ異物も、生活に支障がなければ、そこに潜んだまま、忘れ去られていたりする。それを無理に取り除こうとして、却って危険な手術になってしまう場合もある。
でも、あれを取り除かなかったら、クルド問題の政治的な解決は難しいのではないかと思う。